忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

ブログ開設への想い

日本各地に海部という地名が残る。かつて海人族といわれる人々が日本列島にいた。

中国南部やインドネシア等からの漂泊民、航海者である。その後、あるものは陸に上がり、後から到達した、おそらくは大陸のツングース系の系譜を引く大和朝廷に奉仕した。あるものはそのまま漂泊者として定住することなく、日本の歴史の中に消えていった。

これらの人々は海のことを”アマ”といった。”ウミ”は後世の発音である。海部(アマベ、アマムベ、アマリ、アマルベ)、海士(アマ)、海女(アマ)、安萬(アマ)、余戸(アマリ)、天辺(アマベ)等、すべて海人族に関係する地名、呼称である。

私の故郷の大分県にもかつて北海部郡、南海部郡という地名があった。豊後水道沿岸地方である。残念ながら”平成の合併”でこの地名はもはや無い。地名はまた、その地域の歴史的文化遺産である。つい最近まで何千年を超えて何気なく使い、いつも側にあった、これらの地名の消失を許容した我々の罪は重い。

海部郡、大分県ではアマベと読むが、紀伊ではアマリ、尾張ではカイフと呼び、隠岐では海士郡(アマ)と表す。今もまだ、これらの地名を堅持し側に置いて生活している人々に対して尊敬の念を禁じ得ない。民俗学の理解者である。

祖先達への懺悔の思いもあり、喪失した我が海部郡の歴史を掘り起こしたい一心でブログを開設することにした。ただ、この地方には中世史さえ文献資料に乏しい。浅学の身としては、遠い古代の歴史まで辿るとしても想像の域を出ない。確たる歴史証明のある江戸期に至る間、中世を中心に暫し想像の世界に浸ることとした。

傑物の天武天皇は大海人皇子と称した。何故、”海人”なのか、かつて疑問に思ったことがある。

                             豊後のロレンス
                                了

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