インドに駐在するK氏から叱声が飛んできた。
筆者が、「この地は華やかな歴史舞台には登場しない。」、と書いたことへの反論である(4月7日付け、地勢と生活文化(1)参照)。地元の輝かしい歴史に目を向けるべきだ。曰く、縄文時代の最先端の文明・技術がかつてここに存在していた。何故、それが失われ継続出来なかったか、それこそを問え、と。その通りである。ただ、筆者に言わせれば歴史とは記録であり、文字の無い時代については考古学の範疇と理解するが、まあ、それはさておく。
早速、推奨された「火山で読み解く古事記の謎」(蒲池明弘、文春新書)を読んだ。否定はしない。寧ろ、示唆に富むアプローチだと感心した。如何に火山活動が縄文の人々の生活を脅かし、一方で、豊かさをもたらしたか、その記憶が古事記に反映されているのではないか、そういう在野からの考察である。
およそ7千年前のトカラ列島のカルデラ大噴火がこの地(南九州の天孫降臨の地)の住民に残した記憶、また古事記が出雲地方を詳述する背景(かつて出雲地方も火山活動が活発な地であった)、火山活動が人々に与えた記憶が古事記に刷り込まれている、そういうことを述べている。書く姿勢が真摯で好ましい。新しい古事記の読み方である。そこまでで止めておく。
南九州、今も火山活動が活発な薩摩半島(阿多地方)、霧島連峰周辺に縄文文化が興隆していたことは事実である。この地には、南洋からの漂着民が定住し、後に日本列島に到来する征服王朝からは熊襲あるいは隼人と呼称される。南から吹く風はハエ、あるいはハイと呼ぶ。ハヤト(隼人)はこれに由来する。南から渡ってきた民である。
ついでながら、日本には竹は自生していなかった。この南洋からの人々がもたらした。竹取物語を始め竹にまつわる伝承が各地に残る。南洋からの伝承譚、その変型である。今日、日本の竹文化は多種多様に亘っている。隼人の民からの贈り物といえば言い過ぎであろうか。「竹の民俗誌」(沖浦和光、現代書館)に詳しい。
古事記を筆者なりに大雑把にくくれば、天津神(征服王朝)と国津神(先住民族)についての物語である。
換言すれば、天津神が国津神を支配することの正当性を述べた”歴史”記述である。ここで敢えて触れるとすれば、神武東征であろうか。筆者の郷土史研究の主たる対象である海人族の航跡が重なっているからである。西日本各地には、南九州から豊後水道、瀬戸内海、紀伊・熊野から大和盆地までの神武東征の伝承が残る。筆者の郷土にも伝承地、米水津・居立の神の井、大入島日向泊浦・神の井がある。
オオヤマツミ(薩摩阿多地方の隼人の首領)の娘コノハナサクヤヒメと結婚、ホデリノミコト(海幸、隼人の祖)、ホスセリノミコト、ホウリノミコト(山幸、天皇家の祖)の三柱を産む。ホウリノミコトの孫がカムヤマトイワレビコ(神武天皇)である。因みに我が海人族の祖はニニギノミコトの兄、ホアカリノミコトである。
神武東征には海人族が深く関わっているが、ここではこれ以上の説明は止めておきたい。筆者は中世に集中したいのである。記紀に触れようものなら迷走することは分かっていた。これ以上は勘弁願いたいのである。それに筆者は支配者側からの歴史にはあまり興味が無い。神武東征よりは海人族の生きた日々に想いを馳せて止まない。
日本各地に海部という地名が残る。かつて海人族といわれる人々が日本列島にいた。
傑物の天武天皇は大海人皇子と称した。何故、”海人”なのか、かつて疑問に思ったことがある。
了