忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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豊後相克の行方 中世豊後及び海部郡・郷土史研究資料(6)

 いつの世にも避けがたい新興勢力に対する旧勢力の反駁・反抗である。ただ、豊後においてはその新興勢力が進駐軍であったことが最後まで双方の宿痾として戦国時代末まで続くことになる。

 

 豊後の名族・大神姓緒方氏は、源義経に対する頼朝追討の院宣を受けて義経側につき奮戦する。時の棟梁は鎮西一を謳われた畏れ多き者、緒方惟栄であったが、最後は頼朝に屈することになる。大神一族を脅威ととらえた頼朝は豊後を西国では唯一、直接統治(関東御分国)することになる。12世紀末、最も信頼のおける腹心、大友氏を豊後守護に起用し送りこむ。大神姓一族は祖母嶽大明神の祭神である大蛇の子、大神惟基を祖とする。その後胤としてその数は豊後一円に37家に及んだ。さて、大友氏の豊後入りに対して大神姓大野氏を筆頭に国人衆は反旗を翻すが、結局、大友氏の軍門に降ることになる。

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豊後八郡と知行面積

 かつて家を継ぐ場合、分割相続が一般的であった。兄弟姉妹、皆に分け与える。この時代、相続財産は殆ど土地である。新たな土地開発の余地があった時代はそれでも良かったが、そうそう分け与える土地が手に入る訳では無い。やがて相続財産の細分化による家の存亡や勢力減退に直面する。必然、単独相続に進まざるを得ない。もっとも嫡子相続か否かは別問題である。

 

 入国した大友氏も当然この問題に直面した。しかも豊後では後からの侵入勢力である。それでも可愛い子らに食い扶持を与えねばならない。選択肢は支配下に入った旧勢力の地盤を蚕食する、あるいは勢力地の外に奪いに行くしか無い。結果、旧勢力に庶子を送り込む事で始末した。条件としては大友氏の家紋、杏葉紋の使用の許可である。一門として、或いは一門に準じる扱いをするお墨付きである。ブランド供与と家の安寧の保証という訳である。この紋を得た家を同紋衆と呼ぶ。大友氏の家紋、杏葉紋は舶来のデザインで馬具の装飾を表す。逆に従来から続く家を他紋衆として区別した。差別したと言ってもいいかもしれない。一万田、戸次、臼杵、田北、入田、朽網、志賀、田原、と悉く手中に落ち杏葉紋を得た。賀来氏のように滅ぼされた家も出た。長い物には巻かれろ、である。

 

 一方、国人衆には頼朝も恐れたあの大神一族の後裔という自負がある。源平合戦では源範頼義経を海から支援し鎌倉幕府成立に貢献した。足利尊氏の九州落ち時には、大友氏麾下とは言え、その挽回を支援し室町幕府成立に貢献したのも、これら国人衆の力量に負うところが大きい。武門であれば尚更、大友支配下にあってもこの自負を中々消せるものでは無い。常に導火線の口火となり得た。因みに大神姓一族は三つ鱗、三本杉である。大神氏の祖、大蛇の子、大神惟基の背中に三つの鱗があったとの伝承による。

 

 面倒なことに、同紋であるからと言って従順かというとそうでもない。大友氏と同格を自負する家も出てくる。あわよくば転覆を目論む家も出てくる。他紋の家は言うまでも無い。内紛、叛旗、謀反、が相次ぐのである。これが大友の宿痾になった。

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同紋及び他紋の相克図

 孤高を保ったのが、唯一、最後まで大神姓の純血を守った佐伯氏であった。棟梁が皆非凡であったと言えよう。加え地の利を得た。懸崖の地であり攻めるに難い。大友氏は何とか佐伯氏の勢力を削ごうと手段を尽くした。同紋の讒言にも乗じた。佐伯氏もよく辛抱した。同紋諸氏、隣国諸家との縁戚関係を結び(娘を正室として送り込んだ、女は強い、時として嫡子への影響力は夫を凌ぐ)、兵を養い家産を蓄え手段を尽くし、純潔と父祖の地を守った。

 

 やがて大友氏は島津氏との九州決戦(耳川戦)に敗北、国が傾く。およそ10年後、島津氏の徹底的な豊後掃討戦が始まる。同紋衆は悉く島津氏に寝返った。大友氏の棟梁義統が逃げ回る中、同紋の岡城主(直入郡)志賀親次弱冠19歳、他紋の栂牟礼城主(海部郡)佐伯惟定弱冠18歳、二人の若き棟梁は、島津義弘、家久兄弟に立ち向かい屈しなかった。 

 

 そもそも耳川戦に至るのは隠居した大友宗麟が日向延岡にキリシタン国を作る為でもあった。豊後勢に大義が立たない。そんな戦いに、惟定は、祖父、父、叔父を悉く失った。惟定9歳の時である。その10年後、島津の豊後掃討戦に惟定は自領を襲った島津家久勢を返り討ちにし最後は日向国境に追った。豊後勢力において唯一島津氏を破った。豊薩戦の白眉である。島津征伐に立った秀吉は感状でこれに答えた。

 

 その佐伯氏にとっての不運もまた大友氏によりもたらされる。文禄の役での当主大友義統の敵前逃亡による改易への連座である。大友に疎まれ、頼りにされ、その最期に連座し、若き棟梁惟定は忠節を尽くし、何の失態も無き中、豊後大神一族の最後の血流としての幕引きをも担う。他国に禄を求め佐伯の地を出国していくのである。未だ24歳、将来に夢多き若き当主であった。

 

 その後の生き方も矜恃として清々しい。郷土の誇りとしてよい。筆者は涙無しには惟定を語れないのである。