忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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海からの覇権 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(7)

 “海賊”は、本来、海の統治者である。陸の統治者が”土”を知行地とするのに対し、”水”を知行地とする違いに過ぎない。いわば海の在地豪族である。陸の権力が自らと同等に扱わない限りにおいて海賊となるのである。地球の7割は海である。海から見た道理があってもいい。古今、世界に水上生活民は多い。基本的に土地を持たない。土地に住まない。定住しない。が、陸の支配者が海の支配に乗り出す事によりその動きを封じられた。これをよしとしない者は漂流の道を選び歴史から抹殺された。陸にもそのような漂泊民がいた。こちらも歴史から抹殺された。陸からの定置点観察による歴史記述による限り、海には、そして漂泊民には歴史が無いのである。定住か非定住かがその分かれとなる。そこを斟酌しておく事が肝要である。

 

 動きを封じられたとは、陸による海の警固衆化である。古代王権時代の年貢運搬は陸送が義務付けられ、海上輸送は禁止されていた(安心と安全である)。年々の物流増は海上輸送の道を開いた。そこに海賊による警固化ニーズが生じた。海の物流の警護であり戦時の兵力転用である。江戸期になっては水軍と称されるが、戦国期までは海賊である。体制内と体制外の相違による呼称である。海に陸を凌ぐ権力があったとすれば、陸は山賊・陸賊、と呼称され海の歴史に埋もれたに違いない。視点の相違である。当たり前だが、人は陸に多く生まれ落ちる。海の民は食料調達の為の陸への仮寓は避けがたい。海が陸を借用することはあれ、陸が海を借用することにはならない。権力構築力のハンディは克服出来なかったのである。

 

 我が遠祖海人族は、海を伝い川を遡り、陸に上がるものと海に漂流するものとに分かれた。陸に上がった限り、陸の統治者とはルーツに大きな相違はないのである。ただ、大陸からの陸の血の濃さに取り込まれていったのである。

 

 古代フェニキアカルタゴ、中世ヴェネチアの道もあったにはあった。彼の地では陸を借用し海の物流を制し黄金の歴史をつくった。日本には堺に兆しを見た。だが王国の歴史は残せなかった。倭寇はその王国を構築する可能性はあったやもしれない。だが中国という巨大市場と体制はその道を封じた。交易せずの鉄槌である。

 

 さて戦国期である。瀬戸内海は物流の海である。ぐるりとその周りに在地政権が乱立する。兵力と兵糧の適時大量投入が戦力と合戦を左右する。海賊の取り込みと海賊自らによる毀誉褒貶である。海賊は海の統一政権の道を目指さなかった。思いもよらなかったのは致し方ない。自らの海の歴史を記述出来なかったからである。歴史記述の積み重ねはそれほど大きな知的財産を形成するのである。

 

 さて以前より気になっていることがある。この時代は未だ櫓走である。帆走は珍しい。海賊の優位性は高速移動と機動力にある。村上水軍の毛利と手を組んでの信長との木津川口での海戦を思い浮かべるのである。村上水軍は本拠地となる来島、能島、因島から遠路摂津木津川口まで遠征した。これら本拠地から摂津沖まで直線距離で約230Kmある。船団は、安宅船、関船、小早船で構成されるが、いずれも櫓走での移動である。戦闘は小早船を主力とする(今でいう巡洋艦である)。その230Kmに及ぶ櫓走に想像が追い付かないのである。無論、各地に停泊地を築き経由しつつの移動ということであろうが、そのエネルギーの損耗度に思いを馳せるのである。加え戦闘行動である。ただ瀬戸内海特有の潮流は利用したに違いない。顕学の資料によると、瀬戸内海の潮流は西から豊予海峡、東から明石海峡鳴門海峡から入ってくる。その満潮、引潮の航行への利用である。三方向から侵入した満潮はいずれも広島鞆之津、香川箱崎岬を結ぶ線当たりで止まるらしい。引潮時にはそこから逆流していく。当然、これを利用しない手はない。したに違いない。

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戦国期の軍船

 同時代のヴェネチア共和国のガレー船は櫓と帆の併用である。流石に外洋航海には帆がいる。東ローマ帝国コンスタンチノープル、更には黒海へも交易の航海を繰り返したのであるから。ただ櫓走時は鎖に繋がれた奴隷を使役するところが日本とは違う。戦闘時には櫓走が機能的であることは関船、小早船と同じである。白眉が1571年のレパントの海戦である。日本の場合、奴隷使役はない。自らが漕ぎつつ兵として戦った。エネルギーの損耗度はいかばかりであったろう。そういえば平戸のイエズス会保有し移動に利用したフスタ船を漕ぐ奴隷は日本人であった。日本人を奴隷売買で購入し使役していたのである。宣教師の素性が知れようというものである。秀吉の憤慨いかばかりであったろう、伴天連追放令も止む無しである。

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ガレー船


 豊後に転じる。豊後水軍は存在したが、我が佐伯水軍については先学も詳らかに出来ないでいる。以下、筆者の推測である。大友氏は毛利氏と筑前豊前の陣取り合戦を繰り返す。両者を隔てるのは周防灘、伊予灘である。水軍力は不可欠である。互いに豊後水軍、毛利水軍はある。だが、海戦ともなれば、河野水軍、村上水軍は無視し得ない。毛利氏の前の大内氏の時代より古くて新しい課題である。大友氏はかつて当主の相続争いに河野氏を豊後まで呼び込んだ。その後、宗麟の父義鑑の時代に河野氏正室に娘を送りこむ。河野氏とは近い関係である。河野氏は村上氏とも因縁浅からず、毛利氏も当然チョッカイを出す。海上はなかなか複雑な関係にあった。

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西国における水軍根拠地

 豊後水軍に焦点を絞る。大友氏入国前の時代である。平氏の知行地である西国征伐の大将として源範頼は周防まで進軍した。が、平氏の水軍力の前に九州に渡れず窮した。これを救ったのが豊後の傑物緒方惟栄である。兵船82艘を送りこみこれを支援、範頼は別府湾より上陸し九州の平氏を一掃する。平氏は海に逃れ最後は壇ノ浦で滅びる。義経も河野水軍のみならず、紀伊熊野水軍平氏から源氏に翻意した)あっての勝利である。海賊が政権を交代させたのである。惟栄は豊後の大河大野川を遡った緒方郷を根拠地にする。何故、水軍を保有し得たのであろうか。海部郡を制していたと言わざるを得ない。大野川一帯には海部の名前が残る、海と川の水運を抑えていたことは間違いない。

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源範頼 九州征伐ルート


 さて大友氏の時代である。豊後水軍は三つの勢力に大別出来そうである。筆者の推測である。大友氏と勢力拮抗する国東・速見両郡を支配する田原氏傘下の岐部氏をはじめとする国東浦部水軍、大友氏が直接支配下に取り込んだ佐賀関を本拠とする若林水軍と別府湾奥の真那井・辻井水軍、そして田原氏同様に大友氏とは距離を置いてきた佐伯氏の佐伯水軍である。海部水軍といってもいいだろう。同じ海部郡に属する若林水軍は佐伯氏とは近い関係にあったと推測する。また佐伯氏は独自に伊予との縁戚関係も作っている。伊予水軍との関係も深かったはずである。大友氏は、土佐一条氏(大友氏と縁戚関係にある)と敵対関係にあった伊予西園寺氏攻略を佐伯氏に命じる。佐伯氏は若林水軍を従えこれを実行するのである。佐伯水軍が存在しないはずがないのである。

 

 筆者は国東郡の田原氏と海部郡の佐伯氏が南北から大友氏を挟撃する夢を描いたことがある。大内に対する毛利の道である。戦国大名への脱皮である。その可能性はあったはずである。

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佐伯氏戦国大名への夢


 海賊の話が飛躍してしまったようだ。興奮未だ冷めやらぬので暫し筆を置く。