忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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国際貿易の嚆矢 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(8)

 交易と言えば香辛料と奴隷である。紀元前より奴隷貿易はある。また古くからアラブ商人の主要な取引品でもあった。アフリカはともかく東欧やトルコから多くを調達した。奴隷のことを英語でslaveというが元はスラブ人のことであるのは周知の通りである。イスラム王朝が盛んであった時代はアラブは地中海世界でもスペインやイタリアから略奪した。イタリア人が海岸を避け奥地の山上に都市をつくったのはこれを恐れたからである。ベネチア黒海貿易では穀物のみならず奴隷を取り扱った。西欧によるアフリカ奴隷は新世界の発見が契機であった訳だが、それがなかったら奴隷貿易についてはアラブ人が目の敵にされていたはずである。目的は労働力であるが、兵力としても使役した。13世紀に起こったエジプトのマムルーク朝が奴隷出身者による王朝であったことは象徴的である。かく言う日本人も日本国内では奴隷売買は茶飯事だった訳だが、文禄慶長の役で遂に外国人に手をつけた。その前の前期倭寇の時代から既に手を染めてはいたが、何しろ規模が違う。この戦役だけで数万人を捕獲したのである。

 

 次に香辛料である。元はアラブ商人がアジアとのインド洋交易ルートを開拓しこれを独占した。西欧ではベネチアがこれとタッグを組み独占した。この独占ルート以外を必死で探した結果がポルトガルによるアフリカ希望峰周りの海上ルートの発見である。大航海時代の扉も押し開いた。香辛料は、インドの胡椒、モルッカ諸島のグローブ、バンダ諸島のナツメグ、メースである。モルッカ、バンダは、スパイス諸島と呼ばれる。アラビア半島南部から対岸のアフリカ沿岸部にも乳香というアラブ商人にとっては高価な取引品である香料がある。香辛料ではない。だが、この交易品がジェッダ商人を産みマホメッドを産んだ。イスラム教の誕生である。

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 モルッカ諸島やバンダ諸島は場所が秘匿されてきた。アラブ商人を排除するように後から進出してきたポルトガルは当初はその場所を探せなかった。いずれにしてもインド洋の海上交易ルートはポルトガル人に席捲されていく。これとともにベネチアも没落していく。このグローブ、ナツメグ、メースも世界でこのスパイス諸島だけにしか生育しない。しかも限られた小さな島だけである。何故か、植物学上の考察を拝聴したいところである。

 

 その後のポルトガルの海外進出の様相を見るに、かつての日本軍の太平洋戦線での領土拡張と補給線の破綻の比では無い。広大なインド洋沿岸に要塞を作り兵を配置した。点の維持が精一杯で面を抑えるには人口と国力が小さ過ぎた。しかも人口百万人余りの小国の王室の単独事業である。資金も続かない。アラブ商人はこの網を掻い潜ってアジアとの交易を往時程ではないが維持出来た。やがてポルトガルの王室事業は破綻、私貿易の段階に移っていく。これがアジアでは曲者になった。武力もある。欧州との交易ではなく、アジア内での仲介貿易に終始したからである。それほどに香辛料貿易と仲介貿易は莫大な利益をもたらした。

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野間晴雄氏「海の回廊と文化の出会い」より転載

 前置きが長くなった。

 西欧人、特にポルトガル人は交易に来た訳ではない。欲しくてたまらないものがアジアには溢れていたからである。仮に交易に来たにしても何も売るものを持参出来なかった。かつての奴隷同様に奪いに来たのも同然であろう(非難を覚悟の上である)。何もアジアにしてみれば西欧から買いたいものがあった訳ではない。アラブ商人はアラブ世界の商品やインドの胡椒や綿織物をもって中国まで売りに来た。中東世界の物産をもって売りに来た。乳香もあり軍馬もあった。馬はまさにサラブレッドである。その為の船も航海術も早くから獲得した。ダウ船である。9世紀には既に広州まで来訪し居住区を作った。このダウ船を参考にして中国はジャンク船を開発した。これで中国商人も遠洋航海を手中にした。

 

 アラブ商人はアラブやアフリカやインドから数々の物産を東南アジアや中国にもたらした。西欧は何をもたらしたか。武力と宣教師である。アジア世界に必要なものではない。ただ頑張った点もある。大西洋とインド洋を渡らなければならない。風次第となるが、季節風は年に2回しか使えない(夏と冬、風向きが変わる)。少なくとも往路だけでも1年は必要になる。それに無事帰還できるがどうかも頭痛の種である。インド航路の往復帰還率は59%と結構、厳しい。それでも挑戦を止めなかった。そこは褒めておく。まあ金の亡者は後先を顧みない。

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1551年1600年の間の海難事故件数と発生地域、リスボン~ゴア間の帰還率 

神戸大学・若土正史氏論文より)

 

 さて日本である。前述の通り日本の商人も奴隷を商品とした。古くは安寿と厨子王の物語で知る。人買いの山椒大夫である。貧困が最大の要因である。戦国時代は更に酷かった。戦勝者側による乱取りである。ある意味、農民兵はその為に戦った。豊薩戦の敗者となった豊後でも一般の人々が奴隷として島津兵に曳かれて行った。皮肉にも当時の貿易港は肥後の横瀬浦である。大友氏が重要視した南蛮貿易の博多に代わる港である。豊後の民はここからポルトガル商人に売られていった。幸いにも我が佐伯地方は島津を退けた。不幸にも大野川流域は悲惨であった。豊後の農業生産力はしばらくは激減した訳である。既に相次ぐ大友の対外戦争や天災で民衆は困窮の極にあった上にである。ルイスフロイスがその惨状を綴っている。

 

 前期倭寇は特に朝鮮半島から米や人を略奪した。文禄慶長の役では遠征軍の後を日本の奴隷商人がゾロゾロと従った。日本軍から朝鮮人を購入する為である。兵士の戦意は案外こういうところで維持されたのである。有能な技能者に加え、一般民衆の多くが捕らえられた。数万人に及ぶ。朝鮮も国土を荒らされ住民を連れ去られ散々な目にあった。この地の人々に後世まで遺恨が残って当たり前である。

 

 日本の交易はどうであったろう。厳密には日本ではないが琉球が仲介貿易で潤った。冊封体制下でもっとも中国に可愛がられた。東南アジア諸国に比べ中国との交易回数は171回と突出して多かった。交易船さえ中国から提供され多くの中国商人も琉球に店を連ねた。中国の商品を東南アジアに転売、遠くはマラッカまで船を出した。シャムへの航海が62回と最大でマラッカがこれに次ぐ。

 

 西国大名がこれに目を付けぬはずがない。室町幕府に代わり、大内、大友が引き継いだ。だが両者とも中国に嫌われた。朱印状の捏造や寄港地である寧波での暴力沙汰である。中国にとってはちっとも可愛くない。だが両者は有力な貿易品を自国内に得た。市場のタイミングも良かった。大友の硫黄と大内の銀である。硫黄は火山がないと採れない。薩摩と豊後は火山国である。ここでも豊後と薩摩は争った。硫黄は黒色火薬の製造に欠かせない。これが中国や東南アジアの大需要に応えた。加え、薩摩は琉球をうまく取り込んだ。これにより財政は幕末に至るまで他藩を凌いだ。維新の立役者になれた一因でもある。大内、毛利は特に中国の貨幣需要(銀貨)、中国との交易の交換手段としての石見の銀である。世界最大の産出量を誇りポルトガルやスペインが殺到しこれを仲介した。何しろ当時、世界の産出量の三分の一を占めた(200t/年)。これが世界貿易の嚆矢になった。

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交易品:大内・毛利の銀、大友・島津の硫黄

 さて豊後佐伯地方は海外交易に乗り出す機会は無かったのであろうか、というまたもや筆者の夢である。船舶製造と航海技術は問題なかったはずである。交易商品があれば成立する。以前、述べた。この地は地質学上は付加体である。火山は無い。付加体は硫黄や銀をもたらしたか。それは無い。火山と造山運動、熱水鉱床が不可欠である。あるのは付加体上の山と海である。ただ石灰岩は豊富に産した。要は材木と海産物しかない。なかなかに厳しい。中国に需要のあった俵物はどうであろう。ナマコ、アワビ、フカヒレである。需要の起こる江戸時代の長崎貿易を待たねばならなかった。これも無理である。

 

 戦国時代の終息は日本国の海外交易の終息でもある。返す返すも鎖国体制による貿易の放棄による損失は大きいが、閉鎖空間に勤勉な国民性を作り、近代に入って優秀な加工産業で貿易立国としての成功をもたらした素地を作った意味では悪くない。

 

 さてさて豊後佐伯地方の交易の痕跡は無いものであろうか。無いものねだりかもしれぬ。これだけは金を出しても買えない。