前回、大友氏の宿痾について触れた。極めて面倒な作業であるが筆者なりの解釈でこれをまとめてみる。
15世紀中期から16世紀末までのこの時期は、守護大名が戦国大名への変貌期にあり主従関係は緩くフラット気味であったろうか。在地領主に主家をも自力救済(紛争解決は実力行使)の対象として捉え行動する状況が見て取れる。主家においては、家督相続の筋道が未だ確立出来ていない中、自らの存立基盤を在地領主に揺さぶられる状況に直面した。大友氏の場合、地の利(西国の中央の結節点)にあるが故に周辺勢力の侵入や介入機会も多く、より状況を複雑にした。ただ、大友氏の豊後の統治における不調和は甚だしい(と筆者は捉えた)。
大友氏にとって、在地領主、特に国東・速見郡を領する田原氏と海部郡を領する佐伯氏は目の上のタンコブであったと考えてもよさそうである。特に田原氏は共に豊後入国以来、正面切って大友氏に対抗してきた。大友氏に田原氏からは決して目を離すなとの申し送りがあるのも不穏である。なら他者にしたと同様に早く潰せよ、と思ってしまう。この田原一族はどの当主も途切れることなく大友氏転覆を画策してきた事実がある。最後は21代・大友義鎮(宗麟)に潰され、その次男義家が当主を継承するが、よくぞ数百年に亘り主家にその態度を貫いてきたものである。
次が佐伯氏である。佐伯氏は主家に田原氏ほどの対抗心は示していない。だが、名にし負う豊後の名族大神氏の血流という自負がある。大友氏の豊後入り以来、その佐伯氏を如何に扱うか、様子見を決め込んできたような気がする。お前の扱い次第で如何様にも応じよう、という態度である。よって大友氏としてもこれを討つか懐柔するか最後まで迷ったのではないか。例えば、佐伯氏の府内(大友氏の拠点)入り時の扱いにそれが見える。馬を降りず正面から大友居館入りを許す(4家のみへの厚遇)。賀詞挨拶に対しての大友氏の佐伯氏居館への返礼訪問、等、他の家臣にはない待遇を与えている。一方で、あわよくば潰したい意向も明らかにある。10代惟治、12代惟教の討伐である。いずれも佐伯氏の勢威を妬む家臣の讒言によるとも言われるが、本音としてはやはり潰したかったに違いない。讒言は家臣の忖度であったやも知れない。
さて、この田原氏と佐伯氏が手を組んだ(前稿では手を組めば面白いと書いたが、田原氏の方がこれを実行していたのを見落としていた)。室町期には両者とも小番衆として大友氏を介さず将軍から直接軍事招集をかけられる存在でもあったように元々実力は高い。田原氏には当主に親述(ちかのぶ)という策略家が出た。他の在地領主を扇動することでの間接的な叛旗をいくつか仕組んだ。これなら足がつかない。母親が佐伯氏の娘であり両者が連携した書状(城政冬連署状)も残っている。明らかに手を組んでいる。まあ田原氏の執念の方が佐伯氏よりは深かったともいえるが、佐伯氏もこれに乗った。
筆者は第一次連携(前半50年)、第二次連携(後半50年)と分類してみた。第一次連携は親述が主導したが、第二次においては、田原氏の分家に鵺(ぬえ)のような策謀家(奈多氏出身の田原紹忍、妹が宗麟の正室)が出たが、これにかき回された。田原本家潰し、佐伯氏潰し、に利用された。だが、佞臣であったが故に返って大友家中の不信を深め、主家大友氏の没落を速めたともいえる。
大友氏のもう一つの宿痾に家督相続問題がある。獅子身中の虫が相次いで発生した。自分が当主であるべきだと考える人間が多いのである。これが周辺勢力(特に大内氏)や在地領主を取り込んで暗躍する。首魁は二人いる。13代親綱の6男、大聖院宗心であり、20代義鑑(宗麟の父)の弟である菊池義武(肥後菊池氏を継承)である。皆、これに乗るのである。大義も何もあったものではない。誰を当主に祭り上げるか、それ次第で自分も厚遇される。どこにでもありがちなお家騒動であるが、流石に大友氏の脇は甘すぎはしないか。両巨魁(というほどのものでもないが)は特に実力者である田原氏、佐伯氏に秋波を送ってくるのである。見るべきところはしっかり見てはいる。
大友氏の場合、宿命の敵である大内氏の娘を正室にしたケースが3例ある。その子が12代持直、17代義右、21代宗麟の弟、大内義長である。当然、大内氏の介入を招く。また、争った本人同士はいずれも当主にはなったものの末路があまり芳しくない。
12代持直と13代親綱の場合は叔父、甥の関係で争った。これに大内氏の相続争いも絡んで双方が襷掛けの戦い(1436姫岳の戦)を行い将軍家も加担する面倒な相続争いである。結果、持直は逃亡して行方知れずとなる。加勢した伊予河野通久(惣領家当主)も不運にも戦死の巻き添えを食う。河野氏もいい迷惑である。佐伯氏は持直を最後まで支援した。
最悪な争いが16代政親と17代義右の親子の争いである。両者とも不遇の死を遂げる。これにも大内氏が関与する。佐伯氏は義右の佐伯地方への逃亡を受け入れる。その後、義右は当主になるが早々に毒殺されている(真偽は不明である)。
最後は20代義鑑と21代義鎮であるが、義鎮廃嫡を目論む義鑑を義鎮を担ぐ臣下が殺害の挙に出る。義鎮が仕組んだとの噂もないでもない。佐伯氏は義鎮を支援した。
以上、大友家中の複雑な相克の状況である。結果は大友氏を筆頭に豊後の在地領主はすべてが滅んでしまった(他家への仕官や帰農も含む)。それまでに彼らが費やしたエネルギーは我が豊後に何を残したのであろう。そう思うのである。主従の紐帯がもっとしっかりしていれば大友氏の太閤秀吉による改易も防げたのではないのだろうか、何故に西国に覇を競った島津や毛利はその後も生き抜いたのであろう。やはり国造りに直向き(ひたむき)であったリーダーを幸運にも頂いたからではないのであろうか。家を造ることと国を造ることを見誤ってはならないのである。大友氏は、特にその家を最高点に導いた宗麟には、そこが欠けていたような気がしてならない。
おかげで我が豊後は太閤秀吉子飼いの武将達に分け与えられ、その後徳川に弄られ、小国分立の400年を過ごすことになるのである。小国分立以前、400年前までの豊後の精神が如何なるものであったかは知る由もないが、考えれば考えるほど、酒でも飲まずば、の気分に陥ってしまうのである。
西国の雄、豊後大神氏の精神、そこに結集していた在地領主達の心意気を思うのである。先進地であったが故に、かえって近世に脱皮出来なかった輩達の世界があるだけだ、と言われようと構わないのである。誰にも弄(いじ)られない豊後の素の精神を知りたかったのである。
了