忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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政略結婚の是非 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(12)

 戦国時代、大友氏の麾下にあって、我が佐伯氏も大した策略家であったかもしれない。

 

 政略結婚、一見、特に女性にとっては嫌な言葉に違いない。だが今の世にも、安心、安全の機能として息づいているのではないか、と思わぬでもないのである。利害が念頭にある縁組の事である。お家の繁栄の為にはある意味、当たり前の社会通念である(あった)。そもそも政略結婚などと言う言葉は戦国時代には存在しない(と、筆者は理解している)。筆者は女性差別主義者ではないことを敢えて宣言の上、以下、記述する。

 

 この時代においては、お互いが勢力を維持する、家を守る為には血族になるのが最も安心である。いつの世も”脅威を創造する”事が最大の防御である。マーケティングの鉄則である。政略結婚は、いざと言う時に確実な担保になるという訳では無いが、他の方法よりは優れる。理に叶っている。資本提携みたいなものであるが、この場合、金銭は不要である。財務諸表に例えるなら”暖簾”のようなものかもしれない。悪しき言い方を好むのであれば、女子はそういう価値の交換手段に使われたという事になる。

 

 佐伯氏がしたたかで策略家であったというのは、下図に示す政略結婚の実績を見れは一目瞭然である。無論、他家も同様の政略を採用しているのであろうが、未だ詳細実態を把握出来ていない。かくいう佐伯氏の正室がどの家から送りこまれてきたのかさえ把握出来ていない点は、甚だしく客観評価を欠くことは否定しない。ただ、政略結婚は十分に有効であったのではないか、これ無しにお家が存続出来たかは怪しい。それこそ女性の犠牲の上に成り立ったのである、とはそれも中々言い切ってしまえない優柔不断を否定はしない。

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佐伯氏 政略結婚図

 さて、当主にとっては出来るだけ子供を作っておかねばお家の生存率が低下する。勿論、可能であるなら男子がいいが、生まれてくる順番によってはそれも考えものになる。概ね、お家騒動の種になる。男はつらいのである。

 

 死亡率が高い時代である。妻にするなら見目より身体壮健が第一である。嫁がされる女子にとっては甚だ失敬であろうが、はてそうであろうか。人権や自由や個人主義が培養されていない時代なのである。そもそもそういう考えを持った女性が存在したはずが無い。現代の視点で見れば確かに不都合である。許容し難い社会体制である。だが、当時の女性に同じ考えを押し付ければ、多分、それは迷惑な話になる。そういう社会規範がそもそも存在していない。

 

 男はといえば、確かに側室をおき、猟色に耽る当主もあっただろうが、多くは必死に子作りに励まざるを得ない義務感の強い者達であった。家中の強い意志への対処でもあった。今の世の男の浅ましいありようとは違うのである。もっとも宗麟は前者に属する。しかもその極右である。そういう男達に関しては、当然、唾棄しておく。

 

 それに今風の道徳感は払拭して考えた方がいい。寧ろ、そういう道徳感はつい最近になって定着した歴史的には新しい観念である。性に対する考え方が今とは全く違う。日本という近代国家が確立する前までは、古今、男女とも性に対しての大らかさは目を覆う程であったのである。万葉人や平安貴族が間違いなくこれを演じて見せてくれている。民衆社会にあっては更に開放的であった。人前で肌を晒すことの羞恥心は全くといっていいほど無い時代に生きていたのである。江戸期の混浴が最たるものであろう。成人を迎えての農漁村での若衆の成人への通過儀礼がそうであろう。夜這いはある種の婚約行為であった。

 

 西欧の道徳観が近代に入ってその価値転換を迫ったに過ぎない。西欧が規定する自由や人権という概念は明治になって我が国に入ってきたのである。自由奔放さは万葉の時代から我が国には既に定着していた。それは男女同等である。室町・戦国期においては人権をいう前に自己救済による生存が優先されたのである。

 

 さて政略結婚である。そういう土壌に育った娘達にとっては当たり前の結婚であったはずである。つい最近までの見合いとてその範疇にある。恋せよ乙女、では社会的価値創造に、家の繁栄に参加出来ないのである。寧ろ、男子に産まれる事の方が気の毒な面が多い。当主や養子になれなければ、出家するしか生き残れない。嫡男以外は勝手にお家の最大の脅威と見做されてしまうのである。政争の具にしか使えないのである。

 

 お家にとっては娘の方が価値が高い。失礼ながら売れ残りがあろう筈がない。特に強い家の女子であれば尚更である。世継ぎを産もうなら生涯保証が付いてくる。才覚があれば政治参画も可能になる。いつの世も亭主は時にこれに勝てないのである。悲しい定めばかりに焦点を当てても女性の生き様は見えてこない。したたかに生きた女性達が見えてこない。女性が支えた社会もあったのである。男が書いた歴史から読むからそういう諸相が見えない。どの系図にも女としか記載がない。出自や名前が分からない。その実態存在が記載されていない点が返す返す残念でならない。それを言いたかったのである。

 

 豊後にも女傑がいた。そういう言い方がそもそも失言なのであろう。能力のある女性政治家がいた、と言い換える。立花宗茂の妻、誾千代(ぎんちよ)、不敗の勇将立花道雪の娘である。この人の場合は女傑の方が相応しいかもしれない(家督を相続、立花山城主となった)。立花宗茂は天下を取れる男と言われた人物である。豊臣に組みし改易されたが、その後、柳河藩主として唯一、大名復帰した逸物でもある。誾千代は、この亭主に向こうを張った中々に手ごわい妻であり闘将であった。敵将も避けるほどに功はあった。

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筑前立花山城と誾千代

 鶴崎城主・吉岡鑑興の妻・妙林尼、豊薩戦における島津の豊後進攻において宗麟援護に出払っていた当主である子・統増に代わり(夫は既に耳川戦で戦死している)、戦闘員のいない中、籠城戦を主導、最後は島津を籠絡し追捕した。先見性があり冷静で果断な女性である。

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吉岡妙林尼

 佐伯惟定の母もその部類である。栂牟礼城内でうじうじと議論ばかりで決断出来ない重臣達を一喝、島津討ちの流れをつくった。嫡男で当主の惟定の島津放逐の成果は、その母の強い意思表示無くして実現もなかったのである。

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栂牟礼城址

 大友宗麟正室、奈多夫人(奈多八幡宮宮司の娘)もキリスト教に敵対したが故に、宣教師に悪女に仕立てられてしまったが、ある意味では夫や子や家臣がキリスト教に傾斜し、家や国を傾けつつあることを危惧したが故に取った行動だったかもしれないのである。案の定、宗麟はその通りに国を亡ぼすきっかけを作ってしまった。

 

 政略結婚ではないのである。“家内”、という言葉がある。それぞれの家が、”家内”を頂くことなのである。お家を守ることに関しては、女性達の方が、断然、優れた執政者であったということではなかろうか。

 

 少なくとも筆者の場合は間違いなくそれを証明出来るのである。