そう言いたい訳がある。豊後は何故にかように小国分立の他国の耳目を集めることの無い地域になってしまったのか。
いざという時にこの国を動かす出力を備え得る国でいたか否かという事である。幕末の長州や薩摩や会津や長岡や、そういったこの国の政治に影響を与え得る力量を蓄える国でいたか否かという事である。それは人作りにも影響を及ばさぬ筈がない。何しろ豊後の地勢はあの薩摩よりはるかにいいのである。
そこそこの国力を持つためにはある程度の領国の規模が必要になる。大友改易後、42万石の大藩が豊後内には最大藩の岡藩でも7万石まで縮小してしまった。これでは大した事は出来ない、という事になる。
この恨み節の要因を豊薩戦(大友と島津の九州の関ケ原)に求めざるを得ない。宗麟が忠臣の諫言にも関わらず日向への無意味な合戦を仕掛けたのであるから、しかも勝てばいいが島津に惨敗した。一気に領国のタガが緩んだ。求心力が落ちた。その後、更に島津の豊後侵攻で蹂躙されるに至る。民心は離れた。
宗麟の、理念や大義の無い晩節の政治行動は豊後に大きな禍根を残したのではないか。国を養う事を疎かにしなかったか、六カ国守護まで上り詰めた奢りがありはしなかったか、そこに至るまでの豊後の民衆の疲弊に思いを致したか。
多くを政略で手に入れた守護領国の維持は通常以上のエネルギーを必要とする。勢い領国内の人々の上に負荷がかからざるを得ない。守るの難きに思いが至らなかったと言えよう。
大友の豊後入国以来、400年の統一支配はこの地に何を残したのか、日本の政治に如何なる影響を及ぼしたのか、そこを総括しておかねば豊後の人々の塗炭の苦しみや苦難に対し申し開きが立たない。
それにしても、秀吉による大友の豊後改易、文禄の役でその要因を作った最後の当主吉統、関ヶ原合戰後の家康の始末、いずれも豊後に対して、つまり豊後の民衆に対して、何も益になっていない。よくもまあここまでこの地をズタズタに分割した上にその支配者をコロコロと変え、これを繰り返し、入れ替え取っ替え弄(いじ)りまくったものである。
太閤検地では豊後は42万石の大大名地であった。これを多くの細切れの領地にし、政略的な要地、旨味のある地は直轄地にし(日田地方)、余所者大名の入会地を許し(肥後、延岡)、まるで好き勝手に寄ってたかってこの地を蚕食した。豊後は大画から切り絵の如くとなってしまった。
ここに至るまで、既に豊後の民と土地は疲弊し切っていた。大友による相次ぐ対外戦や内戦の多発、それが豊薩戦、島津の豊後侵攻で極まった。既に政治にこれを阻止するだけの力は残っていなかった。領内は散々に踏み荒らされ、まさに蹂躙されたのである。逃散、乱取り(人さらい)、殺戮、と酸鼻を極めた。子供を含む多くの老若男女が豊後街道、日向街道を引き立てられていった。多くは南蛮人に売られた。生産者は激減し荒地が増大、江戸期にも中々回復がならなかった。秀吉の代官は、周辺国に対し、逃散、あるいは乱取りした豊後の民を帰還させるよう要請状を出す始末である。かつての豊穣の地は見る影もなかった。全て政治の責任である。統治者の責任である。
世界でみるとポーランド分割が当てはまりそうである。ポーランドは周囲の大国(プロイセン、ロシア、オーストリア)に三度分割された。三カ国に領土を三度に渡り奪われたという事である。123年間、国が消滅した。大国の狭間にある国の宿命とは言え囲む国が確かに強国過ぎた。民は哀れである。搾取と何をさておき最初の犠牲を強いられる。
豊後はそうではない。そもそも自らが強国であった。文禄・慶長の役の物資調達国として秀吉に密かに目を付けられたのが痛恨事である。あわよくば奪ってしまえの魂胆が見え見えである。為政者は、これにつけ入られる隙をつくってはならなかった。政治の力量が試される。まさに大友の400年の統治が試される局面なのである。
大友は救国の統治者では無かった。島津の豊後攻めに秀吉を頼った。島津の侵攻に対して当主の行動が軽はずみだった。文禄の役でミスを犯した。他家にも同じミスがあったにもかかわらず、まんまと豊後だけが秀吉の術中にはまった。本来、防げたはずである。
結果、豊後は秀吉の直轄地として、かつ、幕僚達の恩賞地として切り刻まれ分け与えられてしまった。これが豊後に更なる不運を招いた。皆、秀吉の幕下である。西軍大名として挙って関ヶ原に負けた。今度は徳川による新たな改易の嵐である。領地は更に境界線を変えた。人々には支配者が変わる、統治方針が変わる。如何に面倒な事か想像に難くない。
幸いにも佐伯地方だけは(岡藩も同様である)、明治までほぼ一貫した統治体制を維持することが出来た。戦禍も軽微で済んだ。元々大友の豊後にあっても概ね独立王国を維持してきたようなものだ。支配者と、地勢にも恵まれたといえる。そこに住む人々にとってはどちらが幸せだったかは今もって分からない。田畑も荒らされず、乱取りにも合わず、権力の我儘に翻弄される事が無かった事は、やはり幸いであったと言えよう。反面、飛躍を遂げる迄には至らなかった。
だからである。国東の田原氏とともに大友を討つべきであった。秀吉や家康と直接対峙出来る立場に立っておくべきだったのである。何も為せず、ただ主家に連座するしかなかった立場を回避することも出来たはずなのである。歪んだ考え方やもしれぬ。筆者の恨み節である。
大友の400年は語らぬ。だが佐伯氏の400年は見事であった。これを継いだ毛利氏の260年は見事であった。
了