忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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裸もまんざら悪くない 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(16)

 裸にするのが好きである。女性のことではない。もっとも、嫌いという訳でもない。

 物事の事である。ここは豊後佐伯地方の地形や地質を裸にする。すでに我が豊後の地勢については書いた(地勢と生活文化)。我が佐伯地方は付加体で成っていた。これが纏っているものを更に裸にして見ようという事である。中世の生活文化において何かそこに特徴的なことを拾い出せないか、ということが目的である。

 地質、その鉱物資源の含有確率、その上の土壌や植生、ここらを見れば凡その姿形を素っ裸に出来るであろう。その上に生活する人々は如何に共存していたかを探りたい。結論としては、やはり豊後の中でも自然も生活文化も特異であったといえる。

 おさらいである。この地方は、東西に横切る秩父帯(中生代ジュラ紀の付加体)と四万十帯(中生代白亜紀から新生代第三紀の付加体)の付加体から出来ている。付加体とは、海底プレートが沈み込む時に表層が削ぎ取られ陸上プレートに圧着、これが地表に突き上がって出来たものである。だから削ぎ取られた色々な岩石や堆積物が混在している。これを混在岩、あるいはメランジュという。

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 表層から剥いでいく。まずは肌にまとったまさに衣服であるその植生。豊後の中でも佐伯地方は田畑として利用出来る土地が少なく山林が大半を占める。付加体の宿命である。殆どの土地が凹凸の襞になり耕作に適した平地に乏しい。ただこの山林と多雨が豊富なミネラルを海に運び沿岸に漁業資源の宝庫を作った。また領主や民衆は山林やその木材利用を最大限に探ったはずである。造船、木炭、製紙、と土地及びその生産物に付加価値をつけた。

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 山林は広葉常緑樹である。もっとも近年杉の植林が進み人口林が増えた。山林の保水力は落ちた。肌に相当する土壌は褐色森林土(広葉樹林下にできる)である。北側の大野川流域は阿蘇火砕流による黒ボク土(火山灰と腐食土からなる)である。そもそもこちらは大陸プレートである。海から無理やり顔を出した佐伯地方とは成り立ちが違う。混在岩(堆積岩)なんて無い。流紋岩(火成岩)一筋である。地質の肌品質がいいのである。耕作の為の平地にも恵まれる。お隣さんにも関わらず、双方の肌の出自が大きく相違する。因みに良い土とは保水性、排水性、通気性が良いことである。どちらの土壌が良いかは一概には決められない。

 この地にある豊後大野市は隣の竹田市の「TAKETAキリシタン謎PROJECT(”隠し”キリシタン)」戦略と同様にうまい観光戦略を立てた。「豊後大野ジオパーク」である。確かに阿蘇の大規模火砕流・溶岩流によって多彩な岩石景観がある。こちらは”ジオパーク”という流行りの言葉で自然を売りにした。一本とられた感じである。

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 その地質の肌品質について少し詳しく見る。佐伯地方は付加体である。かつての海底プレート上の堆積物が混在している。石灰岩、チャート、混在岩、泥岩、砂岩等のサンドイッチである。プレートの沈み込みで出来る付加体の場合は、混在岩のことを特にメランジュという。堆積岩であるが故になんとも多様な地質である。

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 一方、付加体は金属鉱物資源には恵まれない。因みに豊後南部の金属、非金属の鉱山分布は下図の通りである。各種有用金属の含有分布を示す。祖母傾山系(高千穂地方)に豊かな鉱脈が集中していることが分かる。佐伯地方には何も埋蔵されていない。実に鉱物資源に恵まれない地方であることを厳然と示している。

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 それでも何かないか。更に裸にしてみたのが下図である。鉱床の可能性である。唯一、佐伯地方には石灰石と水銀があった。だが今の時代とは違う。戦国領主にとって、これらはさして役に立たない。金銀銅が欲しい。でなくば鉄でもいい。鉛はないか。鉄砲と玉を自前で製造したい。だがいずれも無い。鉱物資源が無い。少なくとも毛利には銀、大友には硫黄が豊富にあった。それで多額の戦費が賄えた。 

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 地質の相違する隣の大野川上流の祖母傾山系(高千穂地方)は鉱物資源の宝庫であることが分る。大友の手前、佐伯氏も流石にこれを奪いにはいけなかった。この流域に朝鮮半島の製鉄部族が渡ってきたのも成る程、あり得る話である(豊国と韓国のからくり)。戦国領主にとって、領国に有用な地下資源を保有するか否かの差はやはり大きい。佐伯氏、これを継ぐ毛利氏はこれを当てにできなかった。それでもなんとか豊かな領国を維持する術を探った。山林とそれが育む漁業資源からの収入である。これも既に述べた(佐伯の殿さま浦でもつ)。景気の浮き沈みや資源の枯渇という点では鉱物資源よりは長期的に恩恵をもたらすことになった。主要な鉱物資源は中央政権(幕府)が独占管理することになる。取り上げられてしまうのである。

 唯一、海底に沈澱した生物から出来た石灰岩だけは豊富である。近代、津久見にセメント産業が興った。いまでも品質、産出量において日本一である。だがこの地の山の景色は無残なまでに変貌した。これがあまりに見事過ぎるとそれはそれで産業遺産といえる。鉱物資源は自然に対してはそういう結果をもたらす。人が生きることとの大きな交換である。どちらが望ましい選択かは何とも言えない。

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 石灰岩層が広がるからこの地方には著名な鍾乳洞が多い(風連鍾乳洞、稲積水中鍾乳洞、小半鍾乳洞等)。多分、未だ発見されていないものもあるはずである。それにこの地の石灰岩層近辺には見事な渓谷や洞窟が多い。奇勝、景勝の地である。自然景観には非常に恵まれている。だが戦国領主にはこれも役には立たない。水銀も取れたが果たして利用価値はあったのだろうか。

一つ、戦国領主にとってはいい事があった。付加体そのものが領国の防御へ利用できたのである。奇岩、絶壁、山塊、防御には最適な自然の要害となった。平野地に比較すれば、領国防衛の為の出費を抑制できたはずである。外部からの侵入者を自然要害が阻止してくれる為、領国の内向きではあるが経営に集中出来た。反面、外部と化学反応する機会を減じた。それでも外部世界へは海を利用できたのが幸いである。これが独自な生活文化を作った訳である(地勢と生活文化)。

 ここはもう更に裸にしないとおさまらない。石灰岩が横たわる佐伯地方の本匠地区にそれによって作られた景観、鍾乳洞、自然要害、が特に溢れている。勿論、その為人が暮らすには厳しい。筆者の出身地でもある。

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 この海成層石灰岩帯が隣国との境界線になっている。岩峰の連続である。これに沿って九州一の清流といわれる番匠川が流れる。攻め込みようがない。当然、その山中に様々な景勝地が生まれる。地獄谷は高さ数十メートルに達する垂直の壁からなる見事な峡谷であったが、いつのまにか消失していた。石灰石採掘場に変貌し峡谷が見る影も無く消えていたのである。これはショックな事であった。津久見の二の舞である。その向かい側の山の中腹にあるこうもり洞窟は未だ荒らされていないことを祈るばかりである。旧石器人の住まい然とした大きな洞窟である。貴重なこうもりが棲みついているのでこの名がある。保存しておきたい場所である。

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 上流の別の峡谷にある聖岳洞窟はかつて旧石器人の人骨が発見され世を騒がせた。日本で最古の旧石器人ということで長らく学会の調査が続いた。その後、鎮静化して今は誰も口にすることがなくなった(検証を重ねた結果、どうも近世の人骨だということになったようである)。

 桟洞門は石灰岩塊をくりぬいて作ったトンネルである(同じ大分県耶馬渓の青の洞門の小規模なものである)。この地点までくると狭隘な峡谷が迫り道を確保出来なくなる。上流を目指すために岩塊を穿った。その向こう岸には仏座と呼ぶ石仏を安置した洞穴がある。とにかく難所である。それだけになんとも光景が素晴らしい場所である。ここに、かつて日本一を誇った大水車が今も回っている。蕎麦粉を曳いている。

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 この峡谷を更に遡ると小半鍾乳洞がある。奥が深く未踏のままで残る。この対岸に渡るとやがて囲ケ岳洞穴のある絶壁が見えてくる。戦国期には河底まで一旦下りないと向こう岸には渡れなかったであろう。懸崖の地である。洞窟はその断崖絶壁の上にある。その下の狭隘な峡谷の道を島津が豊後侵攻時に上流から下ってきた。その島津兵や輜重隊がここを通過する時を見計らってこの砦から攻撃し壊滅せしめた。島津はその後大友宗麟の居城である臼杵城を攻めるに、上流から大きく西への迂回路を使うことを余儀なくされたのである。自然には勝てない。

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 佐伯地方の中でも特にこの地勢が故に、この地域の谷筋には平家落人伝説、佐伯氏家臣落魄伝説、キリシタン隠れ里伝説等々、様々な伝承が生まれた。事実に基づくものもある。が、これを検証し伝承する人々が過疎化高齢化の影響でいなくなりつつある。それは、何よりも生活文化、歴史文化そのものの継承が断絶しつつあるということである。習俗や民衆の魂がこの地表から消え失せているということである。風俗や信仰や生活様式や、独自の民俗がこのいくつもの谷筋に残っていた。それは人々が数千年の時をかけてこの自然に生きる必然として生み出した知恵なのである。貴重な文化遺産である。それはそこで生きてこそ継承出来るものである。こういう民俗が日本全国で失われていっているということである。

 それは鉱物資源を含めて自然資源の価値転用以上に何といっても最重要な価値であるはずなのである。失ってしまえば、もはや取り戻しようがない価値なのである。それをいずれ我々は思い知るはずである。いいことであるはずがない。

 裸にはしてみたが、何だかこちらの心まで裸にされてしまったような気がしてきた。失われてゆくものへの寂しさと愛しさである。