忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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積年の恨み骨髄に徹す 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(17)

 薩長土肥という。倒幕雄藩である。いずれも徳川への恨みは深い。ただ肥前と土佐は少々背景を異にする。幸いにも徳川治世の260年間、いずれの家も改易、転封を受けていない。一所で力を蓄えるに十分過ぎる歳月である。薩摩と長州には徳川に対等の意識が強い。かつ関ケ原の処断への恨みもある。肥前はさほどの徳川への怨念は無いが在地豪族として独善的な竜造寺隆信への在地領主の反目を結集し肥前をまとめあげ、秀吉、家康に対して巧妙に与した自力生存の矜持がある。忠節を尽くす謂われはない。土佐は何と言っても長宗我部の怨念である。その郷士の魂の叫びである。入国した山内氏の力量ではない。

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 さて本題である。豊後もこれに加わる可能性があったのだ。筆者の愚痴は尚、前回に続く(豊後恨み節)。何しろ西国において、その中心で、豊後はこれら(毛利、島津、鍋島)と室町、戦国と100年を超えて覇を競って来たのである。その為に大友氏は、豊後の人や資源を使い尽くしたのである。同等の価値と可能性を幕末まで残せなかったことに憤懣やる方無いのである。下図は九州・三国鼎立(大友、島津、竜造寺)の構図である。

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 身贔屓が過ぎる事は承知しつつも、この豊後があったればこそ、豊後の民衆の犠牲があったればこそ、これら雄藩が世に出ることになったのである。毛利の大友との調略戦、島津の大友との総力戦、竜造寺・鍋島の大友圧力に対する鎬(しのぎ)あい、これらを克服して力量を培っていったのである。自信をつけていったのである。その為に豊後の国人衆の多くの血がこれらの地の上に流れ、豊後の民が兵糧や労役や様々な大友の要請に対し多くの犠牲を強いられたのである。三国間のそれぞれの命運を決した重要な合戦が下図である。

 

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 この時代は強力なリーダーシップと家臣団の結束とが同時に機能すること無しには中々生き残るのは厳しい。これに時の運というものが重なってくる。最高権力者との折り合い方ということである。室町将軍、豊臣秀吉徳川家康という覇者との関係性である。

 戦国から徳川期までの西国での覇権争いの結果、勝者は、薩摩の島津、肥前の鍋島、長州の毛利、敗者は豊後の大友、伊予の河野、土佐の長宗我部である。特に豊後は秀吉に領国を切り刻まれてその幕下に充てがわれた。伊予は切り刻まれるほどでは無い。小早川の後、まずは加藤嘉明藤堂高虎と二分されるにとどまった。土佐の長宗我部は秀吉を上手くやり過ごしたが家康で躓(つまず)いた。所領復帰の労も空しく当主の盛親は斬首され長宗我部は滅んだ。鍋島のように上手く渡り合えなかった。土佐の長宗我部は九州の島津同様にその実力で生き残れたはずであるが、一領具足と言われる郷士による余所者山内氏への執拗な抵抗が、結局、裏目に出て主家の断絶の要因になった。ただ、豊後のように切り刻まれる事は無く、一国がすべて山内一豊にあてがわれた。 

 西国で唯一、豊後だけが切り刻まれたのである。だから筆者に言わせれば、大友の罪は重い。何故切り刻まれて小国分立が良く無いか前回に述べた。国の独立性は領国の大きさに比例するのである。これを奪われたからである。

 まず九州を振り返る。戦国終局においては、前図の如く、大友、島津、龍造寺の三国が鼎立した。ただ龍造寺氏はかつての大内の毛利のように鍋島に取って代わられた。結局、大友だけが秀吉に改易された。自壊したようなものだ。秀吉から家康の麾下に入った加藤が肥後、黒田が筑前、細川が豊前とかつての大友の支配地を当てがわれた。関ヶ原の恩賞であり、九州決戦とは無縁のものである。薩摩や鍋島にとっても不満である。かつてこれらの地を大友と再三にわたり干戈を交え血を流し支配した地である。島津と鍋島の徳川への怨念である。豊後に至っては遺恨の持っていき場所がない。豊後の血と汗が100年に亘って散々に流れた地であるにも関わらず、本国豊後は既に切り刻まれてもはや亡国である。

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 一方、その後、鍋島と島津は外交と実力で家康との折衝をよくし地盤を守った。伊予河野氏は豊後大友氏と同じ運命に遭遇し滅んだ。かつては大内氏や毛利氏に対して連合したもの同士でもあった。

 さて土佐長宗我部氏は四国の島津になれる家であった。英邁を謳われた元親の嫡男信親が大友救援の為の戸次川の戦で島津に討たれたのが痛恨であった。これで家運が傾いた。すべて大友が秀吉に支援を求め九州に秀吉を呼び込んだことに始まる。大友にも遠因があるのである。

 

 総括しよう。西国の勝ち組である島津、鍋島、毛利、いずれも強力な君主のリーダーシップと家臣の結束により、主家と領地を幕末まで少なくとも300百年間守った。中でも薩摩の島津はダントツに力量を発揮した。秀吉、家康に領国を削られる事もなかった。両者にとっての最大の敵対勢力であったにもかかわらず、である。長州の毛利は在地豪族の立場から守護大名家を討ち版図を拡大したが、家康にその版図を1/3に削られたが滅亡は回避した。家臣団の外交努力にもよる。肥前の鍋島は毛利同様、九州五州ニ島の太守と呼ばれた肥前の熊、主家龍造寺隆信の戦死を契機として主家を乗っ取った。秀吉、家康にも巧妙に立ち回った。非難される筋合いは無い。生き抜く為の知恵を働かせた結果である。勝者の位置を自らで勝ち取った。

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 因みに龍造寺氏は大友に追い詰められながらも今山合戦で勝利した事で息を吹き返した。これを機に大友の杏葉紋を本紋にする。右腕であった鍋島もこれを本紋にした。そうせざるを得ないほど、両者は大友との長い軋轢の歴史を持つ。因縁の相手の家紋を勝手に自らの本紋にした。

 土佐の山内は少々領国運営の様相を異にする。西軍に立った長宗我部の改易に伴い山内氏が入った。ただ長宗我部は関ヶ原では実質的には戦っておらず戦後処理で上手く立ち回る事が出来たはずである。山内一豊は、長宗我部の旧臣、特に一領具足と呼ばれる郷士の反発に手を焼いた。それが結局、長宗我部盛親の斬首、廃絶の要因になった。だがその時の長宗我部の郷士の徳川への怨念が幕末まで続く。

 

 さて戦国の総仕上げとなる関ケ原の戦いの戦後処理を、略、振り返る。かつて大友と覇を競った西国大名は西軍、東軍、いずれに与したか、が下図である。西国大名の6割は西軍に与したが中でも豊後は9割が西軍である。秀吉子飼いの大名達であればこれは致し方がないが、これが更に豊後の悲運である。結果、豊後大名は2家が生き残るのみである。岡藩の中川氏、佐伯藩の毛利氏である。いずれも西軍に与しており、綱渡りであった。

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 その処分内容は次の通りである。

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 これでは、仮に島津や毛利のように遺恨を胸に国力を養い精神を鍛えようにも幕末でいかほどのことが出来よう。権力にひたすら従順に恭順の意を尽くすしか生き延びることは出来ないのである。それがその後の豊後の人々の生活文化にも影響するのである。国の気風を形成するのである。今の気風を嫌気しているのではない。島津や鍋島や毛利のように、大国で生き延びることが出来たとしたら、我が豊後及び佐伯の気風は如何なるものになっていただろう、と詮無い思いに耽(ふけ)ることもなかったであろうということである。

 参考までに西国の主要大名の戦後処理もあわせ整理しておく。

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 我が佐伯氏は藤堂高虎の客将として迎えられ慶長の役大坂の陣で果敢に戦い名を示した。最後は4,500石の扶持を得、藤堂家の重臣として幕末まで生き残ることになる。さて幕末の藤堂家の津藩は当初は佐幕派であったが、鳥羽伏見の戦い幕府軍として参加するも新政府軍に転じる。これが新政府軍の勝利の要因になった。流石というのはお門違いであろうが、あの藤堂高虎の末裔である。ここで佐伯氏が如何に立ち回ったかは知らないが、豊後の怨念が残っていたはずがない。

 

了