忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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戦国合戦、そうは人を殺せない 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(19)

 戦争における白兵戦において殺生(殺人)する事に関する興味深い考察がある。

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 その前に、戦国時代、それぞれの地域でよくもこれだけの合戦を数年おきに、ひどい時は毎年、やったものだと驚くばかりであるが、合戦におけるその兵員数や戦死者数に疑問を抱くことが多い。

 兵は農閑期の農民が主体であったのである。兵農分離は未だ出来ていない。どうしていつもいつも同じ様な兵員を調達出来るのか不思議であった。しかも相手側の戦死者はやけに多い。

 豊後の大友の場合、大きな合戦では3-4万人、中規模なものでも1-2万人の兵員を揃えている。「佐伯の殿様、本で持つ」で書いた様に、統計的には兵員調達能力は平均的に300人/万石。大友の主要領国(豊後、筑後、肥後)は1百万石であったから3万人の調達能力がある。仮に戦死者が2割とすれば6千人、単純に相手から20万石を奪取しないと同じ兵力を維持できない(もっとも相手も兵力を損耗しているが)。そもそも1百万石の戦国大名など当時はそうはいない。3万人を担いでの合戦は戦国時代でも稀と見ておくべきだろう。

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 だから自軍の兵力が数万人規模になる合戦か度重なるようなら信用ならない。合戦時の兵員数が過大に報告されている事になる。また、後述の考察に基づけば、どの合戦も戦死者は意外と少ないはずである。

 参考まで、当時の日本の全人口は12百万人、石高は18百万石である。日本全国では50万人超の兵力調達は可能だったという事になる。但し、これを使い回しが出来たかどうかが問題である(後述の課題)。

 一般的に合戦とは地域紛争の延長にある。外交戦の様なもので、時々牽制する事に主眼があったのではないか。そうそういつもいつも真剣勝負などやれる筈がないのである。戦っては引き、牽制しては引き、それぞれの現状を確認しあう合戦の方が多かったのではないか。この線より前に出るんじゃ無いぞ、といった、確認戦である。でなければ、信玄と謙信が川中島で5度も合戦出来る筈がない。筆者の根拠なき推測ではある。

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 因みに秀吉の1586年の九州征伐20-30万、1590年の小田原攻め20万、1592年の文禄慶長の役15万と立て続けに大兵力を投入しているが、全てが戦闘行動に及んだとは思えない。示威的な目的であろう。戦意を喪失させるだけで目的は達成されるのである。実際の戦闘行動は少なくて済む。本来の合戦の在り方であろう。

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 さて本題に戻る。白兵戦での兵士による敵兵の殺生(殺人)という問題である。1803年からのナポレオン戦争1861年からの南北戦争、1939年からの第二次世界大戦に見る兵士同士が直接戦闘する白兵戦では、実際には15~20%しか戦闘に参加していない、残りの80%は発砲した形跡が無いのだそうである。これは戦闘の時間的経過にも関係ないらしい。

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 南北戦争ではなんと戦場から回収された充填式のマスケット銃の90%(12,000梃)に未だ銃弾が装填されていたままだったそうである。つまり殆どの兵士が装填したまま発砲していない。つまり人間は自分や仲間が殺されそうになっても目の前の相手を自ら殺せないという事を示している。殺人に対する恐怖心であり、罪悪感であり、そうする事への自分への嫌悪感である。この15-20%という数値は、古今東西、普遍的に当てはまる数字らしい。精々戦っている振りはする、という訳である。

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 ついでにいうと、第二次大戦の米軍の空中戦では敵機の撃墜数の30~40%は1%未満のパイロットが撃ち落とし、残りのパイロットの多くは撃っていない、敵機のコクピットに人間の顔が見えるからである。

 同種の動物から攻撃される時に取る攻撃される側の行為は、威嚇か降伏か逃避である。相手に対して威嚇で攻撃を止めさせるか、自分が降伏、あるいは逃避という行動を取る。最後が闘争という手段になる。一般的に動物は降伏すれば殺されない事を本能的に理解している。だから相手を殺す事になる闘争は選択しない。

 これは人間にも当てはまるのである。目の前にいる目が合う生の相手を命令や義務ではあっても殺せないのである。この一線を超えてしまうと間違いなく心的障害を被る。

 第二次世界大戦で六日間ぶっ通し戦闘が続くと生存兵の98%がなんらかの精神的被害を被ったそうである。残りの2%は攻撃的精神病質人格だそうである。戦死者より精神的犠牲者の方が遥かに多い。その後は兵士不適格になる。二度と戦闘に使えない。人を殺す行為は兵士にそう言う症状を惹起させる。だから戦闘途中であっても交代させ休ませないといけない。

 対面して攻撃行動を起こしても殆どの兵士が空に向けて発砲するそうである。人間めがけてはどうしても撃てない。相手との距離が近くなると殺人への抵抗感が更に高くなる。素手やナイフや銃剣でのそれが該当する。攻撃性と距離は反比例するのである。例えば銃剣の場合、刺し殺すよりは銃床で殴る方が遥かに多いそうである。どうしても刺せない。確実な殺人が出来るからである。大量殺人兵器を介して集団で相手が見えない場所からだとそれが出来る。

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 さて戦国時代である。銃も使ったであろうが殺人手段は刀槍である。効果的殺人は切るより刺殺である。差し貫く。通常の人間であればそれが出来ない。しかも俄仕立ての農民兵がやれるかということである。まずは威嚇である。兎に角、大声を出し相手の戦意をなくす、追い払いたい。それでも駄目なら逃げる、あるいは攻撃性の強い仲間の後ろに着く。直接手を下さずその支援に回る。それが実態であろう。

 つまり、双方がこのような心理状態にある。本来、戦死者は少なくなる筈である。お互い殺せない。殺したくない。大量の殺戮戦に参加した兵は、次の戦闘には使えないはずである。既に何らかの精神的疾患を被っているからである。兵としては不適格者になっている。それができると言う事は狂気である。人格の破綻、共同体の破綻である。

 本来、英雄や武勇を囃し立てる事は当事者には決して出来る訳が無いのである。

 だから戦国時代の合戦の実態はもう少し慎重に捉えた方がいい。それとも日本の戦国時代は殺人に無頓着な特殊な人間達が生きた時代だったのであろうか。豊後を蹂躙した連戦に次ぐ連戦の島津兵は如何なる状況にあったのかが気に掛かるところである。

 我が佐伯地方の歴史的に最大の合戦は豊薩戦における堅田合戦である。1,800名の佐伯勢が2,500名(敵方兵力3,500名を前提)もの島津勢を討ち取ったと聞くと、これはもう狂気の戦団と言わざるを得ない。仮に佐伯勢の2割(400人)だけが本気で殺人行動を取ったとして、一人で5人以上を討つ事になる(自軍にも戦死者が出るからである)。そこまで人は殺せない。

 戦国武将は合戦に際しては、神仏の加護を祈り、兵を動かす為の最善の日を占った。籤さえ引いた。信玄も謙信も必ずそうしている。島津に至っては神仏の加護に対して全幅の信頼を置いている。豊薩戦において占いで吉と出た日にどうしても準備が間に合わない。その日に豊後の領地に向けて一本の矢を放った。それで合戦の日にしたという訳である。

 合戦は人間ではどうしようもない天の意思に左右されると信じられていた時代である。あの信長でさえそう信じていた節もあるのである。宗教集団が伸長してくるのは当然のことであろう。戦国武将の宗教集団との合戦は自ら仕掛けた訳ではないのである。どうしても攻せざるを得ない要因が宗教側にあったのである。ある種の宗教界の傲慢に耐えかねて、ということなのかもしれないのである。

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 まさか神仏任せにしたから殺人も容易だったという訳ではないだろうが。

 

(参考資料)戦争における「人殺し」の心理学 (デーヴ・グロスマン、筑摩書房