忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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キリシタン大名はつらい 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(21)

 戦国時代、日本にキリシタン大名が続出したのは何故なのだろう。諸説聞くが腑に落ちるものに出会えていない。1549年のイエズス会のザビエルの鹿児島上陸から1614年の家康の禁教令までの期間である。

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キリシタン大名高山右近

 16世紀、欧州のキリスト教界においては宗教改革が真っ盛りな時期である。14世紀に始まるルネッサンスも未だ息づいており宗教界には人文主義が浸透してきた。カトリック教会による精神的束縛からの脱却であり、人間性の重視という潮流である。

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 既存宗教界(ローマ・カトリック)にとっては逆風の時代である。権威の失墜と新教(プロテスタント)の勢威拡大に手をこまねいていた。社会にはその教義や特権的な聖職者層への懐疑と批判が渦巻いていたのである。贖宥状の販売が典型的な事例である。それぞれの宗教関係者の立場が神の水車図に描かれている(説明省略)。

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 それにも関わらず、日本では、何故、そのような堕落したカトリック教が受容されていったのであろうか。西欧の民衆にさえ不信感を抱かれつつあった教会なのである。

 それはイエズス会による宣教であったからだと言わざるを得ない(私見)。カトリック教会にあっては新興会派である。イエズス会は1534年、イグナシオ・デ・ロヨラの指導下、ザビエルを含むパリ大学の学生七人でモンマルトルにあるサンドニ教会で創設された。ここで「清貧と貞節エルサレムへの巡礼」の誓いを立てた。創設者であるスペイン人のロヨラが厳しい修行の結果編み出した「霊操」が特徴的である。霊魂を鍛える修練方法であり、その到達点は神の意思を感得することにある。

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 カトリック諸派の中では新参の会派であるが、”戦闘的な”組織会派でもあった。教会に籠ってひたすら祈るのではなく、積極的に外に出て布教を実践しようという姿勢が強い。

 更に特徴的な事は、時間をかけて会員に対して学識及び霊的な教育を徹底して行ったことである。大学と高等教育機関を営み、哲学、文学、科学等、当時最高の学問を習得させた。会員には、徳に加え高い学識を要求したのである。この点は興味深い。学識や教養は人を説得し納得させる基本である。イエズス会の宣教師は皆、大学教授並みの資格を有する教養人でもあったのである。因みに日本の上智大学イエズス会の運営である。

 ロヨラは元はバスク地方の軍人である。バスク地方を巡っての仏西戦争による怪我でその道を断念した事が宗教界に身を投じるきっかけとなった。ザビエルも同じバスク人であるがこの時は敵陣(ナバラ王国)にいた。それも影響したのであろう、会員には上長への絶対服従と実践した使命の報告義務を要求した。軍隊的統制と絶対的服従が貫徹された組織なのである。無論、キリスト教には、「貞節、清貧、服従」の掟はあるが更に厳しい掟を課した。そういう組織に属する会員が布教活動を実践する。ある意味、理念を共有する統率の取れた軍隊による戦闘行動の様なものである。

 究極は、神の前に殉死さえ厭わない、その精神的タフネス、信仰への強い信念に、戦国大名が関心を抱かない筈がない。そこまで身を賭して信じる事の出来るものとは一体何なのであろうと。あくまで筆者の私見である。

 戦国大名は戦乱の日常にあって神仏の加護を信じていた人々でもある。民衆も病気平癒や困難時に神仏の助けを求めた。それを果たしてどこまで確信をもって信じ得たかということである。戦国大名は思ったであろう。何の為に殺人行為(戦争)を行なっているのか、自分は何の為に生きているのか、それでも如何に生存を担保すべきか。精神的苦悶に耐えていくしかない。寝首を掻かれかねない下剋上の世界である。絶えず緊張した精神状態に晒されていた筈である。

 一方で、その神仏の加護提供の主体となるべき仏門を見るに、実に世俗的で権威主義的で、戦国大名がそこに生死を委ねる精神的支柱を見出していたとは思われないのである。精神の安寧を委ねる場所であったとは考え難いのである。"この世で善行を積めば極楽に行ける、それを導くのが仏門である"。その教えが空疎に思えたに違いない。

 イエズス会の宣教師は違った。何より個々人の学識が高い。科学的に事象を説明する合理性、説得力を有している。そういう質の高い人間が神の存在とそれによる人間救済の道を説き、ひたすら信心し、信仰に人生を投げ打っている。"あの世にこそ天国がある、神への信仰心こそが唯一の天国への道である"。なんと魅力的な教義であろうか。

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天正遣欧少年使節

 ザビエルに言わせると、元々、日本人は知識欲が深く好奇心が強い。非キリスト教国ではもっとも優れる質の高い社会を実現していると評価した国である。戦国大名も多くは教養人である。双方の戦う場所の相違はあるにせよ通ずるものがあっても不思議ではない。戦国大名にとって、その教義と実践行動が腑に落ちるのである。

 イエズス会の報告では戦国大名の55家が洗礼を受けたとある。在地領主も含む数と思われるが非常に高い数字である。前回報告の人口当たり3-4%のキリシタン比率に比べれば遥かに高い数字ではなかろうか。北は津軽家から南は天草諸家(5家)まで日本全国を網羅している。

 著名なキリシタン大名としては、政治の中心地関西で高山右近小西行長(後に肥後宇土)、蒲生氏郷京極高次、九州では大村純忠肥前大村:日本初のキリシタン大名)、有馬晴信肥前天草)、大友宗麟(豊後)、黒田孝高筑前)、がいる。大名家としては、織田家、前田家、細川家等にも信者が多く出た。これらの大名の洗礼の背景は様々に憶測可能である。西国大名の多くは貿易が主目的であったろう。宣教と貿易はイエズス会が望んだことでは無いが、不可分の関係になっていた。ただ関西の大名は少々違う。こちらは本気である。九州と違い生き馬の目を抜くホット・スポットにいる。貿易地でも無い、貿易船はこの地には来ない。やはり精神的支柱として腑に落ちたのである。

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 九州の大名達もやがて本気になっていく。貿易とは無関係の在地領主が受洗していく事実がある。例えば豊後では岡城主・志賀親次(島津侵攻に対抗した青年武将、秀吉の評価も高い)である。16歳で当主として受洗している。主君の大友吉統の棄教要求や秀吉のバテレン追放令にも関わらず棄教を拒み続け、領内のキリシタンや豊後在住の宣教師達を最後まで保護した。大友宗麟も様々に評価される人ではあるが、晩年の信仰心には揺らぎないものがあった。豊後に滞在していたルイス・フロイスが側に過ごし観察した結果としてその「日本史」に詳述している。

 豊後は大友宗麟が受洗前からイエズス会を受け入れたことが大きい。在地領主の実力が高く強固な政権運営が出来ていなかった中で受け入れた事実にもう少し着目しておくべきであろう。検討課題としておきたい。

 ただ豊後のキリシタンにとっては不幸が重なった。豊薩戦で島津勢に蹂躙され府内や臼杵の教会施設(教会、コレジオ、ノビシアド)が破壊し尽くされたのである。臼杵に建設された教会は欧州にも劣らぬそれは素晴らしい教会であったらしい。府内のコレジオ(高等教育機関)は日本で唯一設置された機関であった。

 

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 加え宗麟を継いだ吉統が秀吉のバテレン追放令を機に手のひらを返した様に棄教、キリシタン弾圧を行い宣教師を放逐してしまった。これで戦国時代最大のキリシタン布教地であった豊後からキリシタンの息吹が途絶えた。宣教師は下(加津佐口之津、天草、長崎、平戸等)に退避して二度と戻る事はなかったのである。

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 高山右近は秀吉に棄教を迫られたが拒否した。これがバテレン追放令の引き金になった訳であるが、六万石を捨てた。秀吉は自身のその拙速な判断を悔いたようである。黒田孝高には棄教を迫れなかった。右近と同じ態度を示すに違いない、損失は甚大だ、と思ったのであろう。秀吉のバテレン追放令は一時的な感情に左右された側面が強い。その後は追求していない。だが信仰心が薄く(信念に乏しい)忖度するキリシタン大名は棄教も早かった。この空気は今も日本社会に存在する。

 家康の禁教令は強い意思による。多くの大名が自主的に棄教していった。黒田孝高はその前に死んだのでどういう態度を示しただろうか知る術もない。豊後の志賀親次は貫いた。右近や親次に感化されて受洗した我が毛利高政も秀吉のバテレン追放令はやり過ごしたが結局は棄教した。国家の意思には逆らえないのである。第二次大戦の大日本帝国の意思を容認せざるを得なかった日本社会の多くの諸事象を見ても分る。

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 イエズス会の宣教師にも遂に棄教者が出た。江戸幕府キリシタン弾圧は苛烈であった。潜伏していたイエズス会の宣教師フェレイラは穴吊りの拷問に耐えきれず棄教した。ローマカトリック教会にとっては大変なショックである。これに触発されてイエズス会士による禁教下の日本への潜入が相次ぐのもイエズス会の面目躍如というところであろうか。多くが捕縛され殉教する。イエズス会の高い精神が反映されているともいえるが、それでもジュゼッペ・キアラはフェレイラ同様に棄教せざるを得なかった。穴吊りの拷問に耐え切れなかった。かような責め苦を負う使徒に対して神は何故に"沈黙"したままなのであるか、遠藤周作の小説の題材である。

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 イエズス会も国家理性には勝てなかった。国家の存在は至上であり何物にも優先するという事である。それはキリスト教会も認めざるを得ない。上に立つキリシタン大名達は国家理性に従う教養を身に着けていたということである。民衆のようにただ只管(ひたすら)に祈り続ける素朴な魂の有り様において劣っていたということでもある。

 思うに日本人を宣教の対象としたからこそ、イエズス会士のやる気は倍増したのではなかろうか。布教に値する人々であったということである。一方、いつ豹変するか分からない、どこまで信用していいか猜疑心を生む様な人々に映ってもいたのである。何分、我が先祖達は天変地異に身を委ねざるを得ない諦観のもっとも強い人々であった。この国の人知を超えた恐れ多い自然に対峙してきた人々の、その魂の置き所も違っていたのである。ただ、布教相手としては難儀であるが意欲を掻きたてられた人々であったことは間違いないであろう。この時期、世界でもっとも布教活動が練熟していた地域ではなかったろうか。

 一方で、洗礼や告解の役割を担う司祭が不在にも関わらず、その後の250年間、幕末まで潜伏し遂に西欧に”発見されたキリシタン”もまた同じ日本人なのである。そこに故国を離れ極東の不可思議な国に散っていったイエズス会士達の宣教の魂を思わざるを得ない。サビエルの撒いた種の生命力の偉大さを思わざるを得ない。

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