忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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宗教勢力と世俗化と文化と 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(22)

 律令体制下においては土地と人民は国家のものであった(=国領)。それぞれの国には朝廷から国司を派遣し支配した。土地からは年貢を取り、人には公事を課す。その国司の差配次第で搾取の動向も変わった。さて、やがて朝廷(国家)側に、税収拡大の為の新田開発の要請が生じてくる。その開発インセンティブが一定の税を収める事を条件に開発者(権門勢家=公家、寺社)にその土地の私有を認める事であった。新田には農民が必要だが、そんなものは新田にはいない。その確保も必要になる。中々首尾よくはいかない。ここに国司や在地豪族と結託していく条件が出来上がる。国領の衰退(国司による搾取、民の逃散)と権門勢家の私有化(逃散民の吸収、在地豪族の保護)の拡大が始まる。荘園の発生である。荘園保有は朝廷の認可を必要とする。貴族、寺社は朝廷とも結託するのは必然である。国領と荘園がそれぞれに形態を変化させていく。公家、寺社の荘園は寄進とともに拡大していくが国領の分は悪い。人の物よりまずは自分の物である。

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 寺社を見る。元々鎮護国家の観点から朝廷(国家)は仏教を積極的に導入する。官寺を定め、これを監督する代わりに保護し、一定の収入を保証していく。東大寺興福寺がそれらである。やがて官寺は国領の一部の管理を任されるようになり、年貢収入の権利も確保していく。新田開発にも参入、免税権も獲得していく。これが宗教者の俗化の始まりである。布教と活動経費の確保という側面はあるが次第に寺社収入の拡大に軸足が移っていく。宗教界が直面するリスクであり、ある種の宗教の形骸化の始まりである(私見)。 

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 当然、新興宗教に参入余地を与える。欧州でのカトリックに対するプロテスタントの勃興にさして変わりはない。どこにも起こり得る事象である。そもそもの存立の本義を忘れるとこうなる。そもそも国家制度に自らを同調させるからそうなる。宗教者である限り孤高の精神世界を追求しないといけない。信仰宗教でありプロテスタント、それが鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗時宗法華宗臨済宗曹洞宗)であった。いわば朝廷、貴族の占有宗教であった従来の仏教(南都六宗天台宗真言宗)に対して、武家や庶民の宗教として鎌倉仏教が興ってきたという訳である。当然の帰結といえる。権門との馴れ合いと俗化が進めば当然そういうことになる。

 一方、鎌倉幕府室町幕府は、この官寺に対抗すべく、禅宗臨済宗)五山を設置、同様に保護し知行地の一部管理を委託していく。それぞれ鎌倉五山京都五山である。その後、これに十刹が雨後の竹の子のように各地に設置されていく。そうなると、こちらも当然の如く俗化していかざるを得ない。寺社には管理ノウハウ、特に財務会計能力が蓄積していく。国家においてもっとも行政能力が高い集団になっていくのである。元々寺社は高等学問の場でもあり容易い所業であったろう。

 政権とも結びつき寄進も増えて、まるで一国一城の主である。戦国期の一向一揆はまさにそれを実現した。東大寺の所領は4千町に達したとの試算がある。中堅大名以上の実入りであろう。鎌倉期の豊後の田地合計は約7千町、戦国期には42万石であったので二十万石を上回る収入規模と仮試算出来ないこともない。比叡山延暦寺に至っては想像もつかない大身であったと想像する。因みにローマカトリック教会教皇領を保有した。8世紀のフランク王国ピピン三世の寄進に始まるが最終的には19世紀まで中部イタリアに4.7万平方キロ保有した。九州地方の面積をゆうに上回る。領土を持つと碌な事は無い。精神世界が俗化してしまうのは当たり前であろう。表現は適当ではないが、悪貨(世俗)は良貨(聖性)を駆逐するのである。何処も同じ穴のムジナである。

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 日本の宗教界も似たり寄ったりである。以上の通り俗化が甚だしい。また旧仏教勢力(権門宗教)と新興仏教勢力(武家、民衆宗教)は、当然、対立する。旧勢力は分が悪い。朝廷(公家社会)が武家政権の前に権力を減退していく為である。やがてこの権門領地(国領、荘園)に武家側の守護、地頭が付け入っていく。時間をかけてこれらに事実上、乗っ取られていく。まあ俗化したツケと考えればいい。宗教の本義に戻ればいいのである。

 守護は国(荘園、国領)の軍事権、要は治安を担う。地頭はその下で地域の警察権や行政、税収管理を担う。荘園の本家、領家にとっては、遠く京都から管理監督は出来ない。地元に定着する地頭が権力、権限を伸ばしていくのは必然である。土地や収入源を奪われた朝廷、貴族の没落に対し武家勢力が拡大、やがてその守護、地頭が大名化していく。いわゆる守護領国制である。守護の多くは地頭であり在地豪族である。俺の住む俺の土地になる。嫌なら喧嘩で決着だ。これが戦国時代である。

 ただ寺社は公家に比較してさして没落していない。鎮護国家の盟主を守護大名も切り捨てられない。その傘下に置いて保護していくのである。無論、旧勢力(権門宗教)は分が悪い。各地で新勢力である武家禅宗や民衆仏教が勢力を伸ばす。

 寺社は宗教を本義とする。にもかかわらず土地支配とそこからの収入拡大に力を入れ過ぎた。室町期には、まるで金融業者のごとくになっていく。行政能力の高い寺社は公家や武家の土地行政を代行していく。資金が貯まる。過ぎた収入を貸付により運用していく。ここに庶民の敵、当事者にとっては本意ではないだろうが世間では悪徳金融業者と怨嗟の的になっていく土倉が発生する。金融は本来、経済活動に不可欠であるが何しろ金利が高すぎた。暴利である。

 貨幣経済の進展が大きい。明銭の輸入拡大に伴い税も物納から金納に変わっていく。そもそも室町幕府には知行地が少ない。ありとあらゆるものに税を課すしかない。その為には金納が便利だ。もっと明銭を輸入しろ、勘合貿易を幕府が積極的に取り仕切る。これも権利である。やがて権利を切り売りしていく。幕府の台所事情の苦しさである。大内氏や大友氏がこれを代行するようになり、貿易の甘い蜜を味わってしまう。もう止められない。

 一方、脆弱な政権は民衆のご機嫌取りに徳政令を常態化していく。世は混乱の極み、この事も戦国時代の幕開けの大きな要因であろう。そんな世の中にあっては強くならねば生きて行けない。農村も惣村として武装し権力に対抗していく。物騒な世である。宗教界も武装する。宗教の本義は雲散霧消の体である。以上、宗教の俗化についての私見である。

 

 さて豊後の宗教勢力はどうであったろう。豊後国図田帳(1285年)によると鎌倉期における豊後8郡の田地数は約7千町である。

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 豊後は元々宇佐神宮の世界である。当時、九州では太宰府天満宮宇佐神宮が二大領主であった。豊後図田帳と宇佐大鏡によると、宇佐神宮領は豊後を含む九州全土で約5千町である。東大寺を上回る。前述に倣うと30万石の大身相当である。日向国田地帳を見ると日向の田地数の25%を宇佐領が占めた程である。

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 鎌倉期、豊後における事実上の国領は僅か11%で、宇佐神宮と権門勢家で76%を占める。この国領の主要な地頭が鎌倉より守護として下向して来た大友氏である(3代目の頼泰の時に初めて下向した)。

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 さあ豊後の荘園、国領をどう分取っていくか、が大友氏の思案であったろう。この時、大友氏以外にも豊後には地頭が併存する(後の主要国人領主である)。守護(大友氏)の主たる収入は、段銭(土地)、棟別銭(家屋)、関銭(通行税)である。これが支配の原資となる。大友氏の場合、地頭としての分配収入もある。これらの原資や守護権を元に在地豪族を被官化、豊後での支配力を強めていく訳である。中央の権門の荘園は容易く大友氏に奪取されたに相違ない。だが朝廷との関係が強かった宇佐神宮の領地を大友氏はどう蚕食していったのであろうか。この時点での大友氏の地頭としての豊後の支配地は僅か19%である(下表の通り)。

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 いずれにしても太閤検地で寺社の領地は殆どが没収されてしまったのである。ただ江戸期には朱印地あるいは黒印地としてかつての所領の一部を安堵されることにはなるのであるが、大した領地にはならなかった。日光東照宮でも一万石程度のものであったらしい。推して知るべしである。

 豊後は九州で唯一、鎌倉御分国(直轄領)であった。大友氏が鎌倉より持ち込んだであろう、武家の支持する禅宗が勢威を振るったことは容易に想像出来る。府内の万寿寺は全国十刹の一つになった。ただ国東では旧仏教がそのまま温存されることになる。宇佐神宮弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場としての仏教である。宇佐神宮の八幡信仰と山岳信仰が融合し六郷満山文化が花開いていた。現代の宗教統計を旧国東郡に当てはめてみると豊後の仏教法人数の40%を占める。極めて高い比率である。現在まで六郷満山仏教文化を継承しているのである。

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 一方、奥豊後、大野川流域でも仏教文化が花開いていた。臼杵の磨崖仏が代表的である。かつてキリシタン信仰と共に多くの仏教寺院が破却された歴史も持つ。興味深いことに、この豊後大野地方は従来型仏教(真言、天台)が33%と全国平均の23%を大きく上回っている。かつての大神氏の支配地でありその影響が残っているということなのであろうか。先学の意見を拝聴したいところである。

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 さて我が佐伯地方はというとこちらも興味深い。国東地方(六郷満山文化)や豊後大野地方(大野川流域仏教文化)と相違し禅宗が39%と高いのである。こちらも全国平均の28%を大きく上回っている。禅宗武家の宗教である。佐伯地方にはそういう武家文化が色濃く残ったということであろうか。こちらも先学の意見を拝聴したい点である。ただ国東地方や大野川流域のような大規模な仏教文化は起こっていない点は何とも寂しい気がしないでもない。宗教の俗化を揶揄したはいいが、正直なところ、文化の源泉ともなり得る宗教の活況はやはり捨て難いということである。無論、宗教文化の担い手は民衆であることを念押ししておきたい。

 大分県には合同新聞社の公募に基づき寄せられた案件の中から学識者が最終的に選定した、”おおいた遺産”が120件ある。我が佐伯地方において、その文化遺産が乏しい(特に神社・仏閣)のは寂しい限りであるが、これは未だ発掘が十分でない為である、と言い聞かせている。

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了