忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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禍福は糾える縄の如し 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(23)

 歴史には運命の不思議がある。運命の皮肉もある。それぞれの運命の糸が紡がれていく。

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 豊後大友吉統、土佐長宗我部元親、薩摩島津義弘、伊予来島通総については後述するとして、まずは豊後佐伯地方を治めた佐伯氏とその後の毛利氏を見る。豊後大神姓佐伯氏の四百年の幕引きをした最期の当主佐伯惟定、その後の佐伯地方の領主であり270年の治世への佐伯藩祖毛利高政、両者の間に運命の不思議がある。

 高政が豊後日田から佐伯に転封してきた時には既に惟定は去っていて互いの邂逅は無い。それまでに両者が出会う機会があったとすれば、唯一、文禄慶長の役においてであろう。

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 高政は遠く尾張に生まれ18歳の時に秀吉の近習となり、やがて播磨明石に3千石の知行を得る。同じ18歳の時、惟定は豊薩戦を自領内で戦い、島津家久に一泡ふかしている。二万石相当の知行地である。両名の地理的位置は遠く、このままであれば、交わる可能性は無い。だが、秀吉が九州征伐や文禄慶長の役を推し進める度に、その距離が縮まっていく。両者の運命の糸が紡がれ始めるのである。

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 惟定と高政の間には運命を握る人物がいる。藤堂高虎である。高虎は高政より二年早く20歳の時に秀吉の弟秀長に仕える。以後、高虎と高政は、秀吉、秀長兄弟の下、中国攻め、賤ヶ岳の戦い等、同じ窯の飯を食う関係になって行く。

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 高虎は、1585年、紀州征伐の功により5千石を紀伊粉河に得、四国征伐の功で加増され、秀吉に一万石の大名に取り立てられた。高虎29歳の時である。1591年、主君秀長の死、1595年、秀長を継いだ秀保の死がある。高虎は1595年に伊予宇和島に7万石で入封、文禄慶長の役後8万石、関ヶ原後、22万石で津に転封する。秀吉、家康に認められた出世頭の一人である。

 一方、高政は秀吉の子飼いとして地味な役割をこなしていく。中国攻めでは毛利への人質となる。これで秀吉は天下取りへの絶好の機会を得た。秀吉による九州征伐文禄の役では船奉行、慶長の役では戦目付と三成指揮下で行政面を担う。1587年、論功行賞として豊後日田玖珠に二万石の知行を得、高虎より二年遅れて大名となる。高政28歳の時である。

 さて、惟定は秀吉の1587年に始まる九州征伐時、案内役として一方の大将である秀長とその重臣であった高虎を佐伯に迎えている(両名は佐伯に宿泊したらしい)。これが惟定の高虎との運命の出会いである。島津戦での勝利がこの運を手繰り寄せた訳である。

 

 惟定の主君、大友吉統の文禄の役での不首尾による豊後改易により、全ての豊後の在地領主の運命が翻弄される。惟定に限らず、全ての領主が総入れ替えとなる。今の世なら、倒産、完全失業である。誰も面倒は見てくれない。自力で生きていくしか無い。

 惟定は秀長を頼るところを秀長の急死により、これを継いだ弟の秀保を頼る。実際はその家臣高虎に500人扶持で仕えることになる。高虎にしてみれば、まずはお手並み拝見というところであろう。

 惟定は高虎に与した事が奏功するが、かつての豊後の同僚達(吉弘氏、志賀氏、田原氏、他)は、この後、二度目の悲運に見舞われる。これも吉統の所為である。吉統が関ヶ原戦時、西軍として豊後で再起戦(石垣原戦、黒田孝高と戦う)を行うに及び、止むなくこれを支援した為である。吉統が黒田孝高やかつての重臣吉弘統幸(立花宗茂の従兄弟)の説得にも応じず西軍に回った事が全ての不運である。

 さて、高虎は文禄慶長の役では船手衆(水軍)として参戦している。慶長の役での鳴梁海戦では、海に転落し溺死寸前の高政を高虎の家臣が救っている。高虎も負傷する。関ヶ原戦では西軍に回った高政は戦後処理で高虎に救われた。二度の窮地を高虎が救った。高政の運命の糸が高虎によって繋がるのである。

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 かつての佐伯水軍の棟梁でもあった惟定は高虎の家臣としてこの海戦に従軍している。高政と惟定の距離が目の前で埋まった瞬間である。ただ運命の出会いがあったかまでは分からない。それでもその時、双方に佐伯の地を共通項として認識する由縁もない。だが高虎による運命の糸は両者を結び付けたのである。

 この鳴梁海戦ではかつての瀬戸内海賊の雄、来島通総が戦死、子の長親が家督を継ぎ、関ヶ原戦後、豊後森藩を立藩し二代目から久留島を名乗る。来島氏は高政の最初の知行地日田玖珠を領するのである。その子孫が二代に渡り高政の佐伯藩の藩主に迎えられる。通総の糸は高政、惟定の目の前で切れたが、高政の糸(日田玖珠、佐伯)に繋がれる。これも運命の糸といえぬでもない。

 運命の皮肉もある。大友吉統と長宗我部元親島津義弘である。秀吉の九州征伐と文禄慶長の役においてのことである。九州征伐において、元親、信親父子は吉統の豊後支援に土佐より遠征してきた。元親は、かつて吉統の父宗麟の娘が嫁いだ土佐一条兼定を豊後に追放(一条氏没落)、大友氏とは因縁の関係にある。元親は嫡男をその因縁の地豊後で義弘に討たれた(戸次川戦)。元親は対岸の宇和島の日振島まで落ち延びるが、元親が追った一条兼定が失意のうちに余生を過ごした戸島はその目前に横たわっていた。皮肉と言えば皮肉である。

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 元親と義弘、かつてはお互い秀吉の敵である。それが元親は慶長の役で嫡男を討った仇、義弘と共に秀吉の為に同じ左軍として戦うことになる。これも運命の皮肉である。徳川の世になると元親を継いだ守親は斬首され家名断絶、島津氏はしたたかに生き残る。四国の覇者元親は悲運としか言いようがない。

 さて東軍についた藤堂高虎、西軍についた毛利高政、高虎と高政の絆があったればこそ、毛利氏の家名は幕末まで生き残る運命を得たといえよう。佐伯氏も同様である。ここは両者とも藤堂高虎に感謝しておかねばならぬ。豊後大友吉統のかつての家臣の中で、400年間に亘り大友氏と終始距離を置いてきた佐伯氏だけ(とは断定出来ぬが)が藤堂家の重臣として幕末まで生き残ったのも不思議な運命である。高政と惟定の生き方は、“ふらふらと浮つくことなく、己の信念を貫け”、という教訓でもあろう。

 いやいや、豊後の全ての元凶となった大友吉統は余生を全うし、嫡男の義乗は徳川の旗本として幕末まで家名は存続する。運命の最大の皮肉はここに至る、であろう。