忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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宗派の分布に見る仏教の実態(続編) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(24)

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おおいた遺産・龍岩寺(岩窟に浮かぶ仏)

 最近、仏教の事が頭を離れない。信仰についてではない、各宗派の分布の実態についてである。我が豊後海部郡・佐伯地方に臨済宗禅宗)寺院の比率が豊後で最も高いのは何故なんだろうと疑問を持った事に端を発する。ただ密教系(天台宗真言宗)、浄土宗系、禅宗系(臨済宗曹洞宗)に関しては、日本全国あるいは大分県、いずれもその寺院数の比率は概ね同じである。参考まで下表・下図に大分県でのその比率を示す。

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 ただ、仏教は江戸時代の”檀家制度”、”寺請証文”の導入をもって事実上、骨抜きにされ生命を終えたようなものである。寺社は毎年、幕府の宗教統制の為に”宗門人別改帳”の作成義務を負い、民衆は全て檀家とならねばならない。寺社は独自の布教活動を禁止され市中で自由に説法することは無くなった。

 結果、民衆は寺社の管理監督下におかれ、ある意味、信者というより寺社の支配の対象になってしまった。寺社は檀家に対し寺請証文の発行権を有する。檀家は毎年、キリシタンではない事を寺社に証明してもらわねばならない。寺社の収奪の対象となっていく。こうして仏教は江戸時代に民衆救済の理念から遊離し”葬式仏教”に堕していく。

 江戸幕府にとっては民衆がどの宗派に属そうがどうでもいい事である。寺社には統治体制のお先棒を担いでもらえば宗派は問わない。既に思想性は殺したようなものである。一方、寺社にとっては檀家が逃げることはない。ならばせっせと蓄財にでも走るか、ということになる。法事の内容を増やしたり寺院の増築・修理やと何かと布施や寄付を課していく事になる。現在の年間を通じての多くの法事はこうして定まった。

 よって現在の各宗派の動向を見る場合、江戸時代以前の仏教の歴史背景を見ておく事が肝要である。少なくともその時代には各宗派が宗旨をもって自由に信者獲得競争を実践していた。江戸期以降にそれは無い。

 仏教の宗派の歴史は下表の通りである。最初は国家鎮護の官寺として始まり僧侶も国家公務員であった。奈良仏教である。朝廷、貴族の宗教であり、やがて寺社(官寺)の奢りを招く。これに対して朝廷は新たに密教天台宗真言宗)を押す。これが奈良仏教の対抗馬として勢力を伸ばしてくる。その意味ではこれも権門宗教であり民衆レベルまでには中々広まっていかない。また、仏教伝来以前から信仰されて来た各地の神社と結びつくことで(神仏習合)神宮寺(神社による仏寺の建立)を通して伝播も始まる。それでも民衆の仏教には未だ遠い。

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 そこに時代の要請として現れてきたのが浄土宗系である。仏教の一大革命である。これが民衆仏教として野火の如く各地に伝播していく。現在でも最大の宗派である(37%)。同時に武士の台頭が禅宗(26%)を押し立てていく。以上が仏教宗派の成り立ちの概観である。

 さて現在のこれらの各宗派の分布を寺社数で見ると、密教は関東、浄土系は西日本や北陸、禅宗は東海、東北に多い。下図(公表データ)より判断した(説明省略)。

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 遺憾ながら何故そうなったのかについての分析まで筆者の関心が追い付いていない。この点は先学の考察に回答があるはずなのでそちらに頼ってもらうとして、以下、豊後に限定して各種の公表データからの私見を述べる。

 上図に見る通り、九州において豊後は独特の宗派分布となっている。これは宇佐神宮の存在が大きい。密教天台宗)と結びつき古くより国東に仏教文化が花開いたが、豊後全体にも影響が及んだに相違ない。何しろ宇佐神宮は九州一円の大地主(荘園領主)であった。国東は国衙でもないのに国分寺が置かれた地でもある。

 また鎌倉政権の成立とともに豊後は九州で唯一、鎌倉幕府直轄地(鎌倉知行国)となった。これで禅宗臨済宗曹洞宗)が持ち込まれたことは想像に難くない。これらが背景にあると思われる。

 密教は古くから開けた地域、あるいは政治の中心であった地域に根付いたと想像可能である。豊後では国東郷と大野郷である。両地域は宇佐神宮の主要な荘園でもあり密教寺院の比率が高い。神道の文化も色濃く残る。

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 禅宗も豊後内では分かれる。”臨済将軍曹洞士民”、臨済宗は政権による政治文化として、曹洞宗は地方豪族、民衆レベルで広まっていく。豊後では、北に曹洞宗(民衆仏教文化)、中央に臨済宗(大友守護政権)の分かれとなった背景が分かるような気がする。

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 さて、我が海部郡・佐伯地方は武家仏教の臨済宗の比率が、豊後、海部郡、佐伯地方、いずれにおいてももっとも高い(39%)。かつての大友氏の拠点、大分郡がこれに次ぐ(35%)。これは何を意味するのであろうか。佐伯氏が守護職として入国してきた大友氏と拮抗して400年間を生き抜いて来たが故に、結果的に民衆文化より武家文化の気風が強くなったと想像するが推測の域を出ない。

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 どうやら江戸期の藩主の菩提寺臨済宗)との関連性もなさそうである。江戸期以前から定着した宗派が江戸期に固定されたに過ぎない。既に仏教の思想的な影響は恐るに足りず、骨抜き状態になっていた。殊更いじる必要はない。

 ただ、葬式仏教を推戴しつつも、古来から日本人の精神の基層として残り続けて来た自然崇拝や祖霊信仰の心、唯一、これは宗派を超えて民衆の本来的な信仰心として今に息づき残った(と筆者は信じている)。それが最も腑に落ちるような気がする。所詮、仏教も輸入文化なのである。我が原産地文化がいいに決まっている。

 

資料出所:宗教年鑑大分県宗教統計

     岡山市南区福田地域センター(Twilog.org/Fuku_kgt 2019/5データ)資料

     ホトカミ(hotokami.jp)資料

 

了