忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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豊後磨崖仏新説 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(26)

  日本の磨崖仏の約八割は豊後(大分県)にある。何故なのかは分かっていない。一般説では、古くから仏教文化が栄え、加工し易い凝灰岩が広く露出していたのが理由、としている。

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 岩山や断崖を穿ち彫る、という仏教遺跡としての石窟(寺院)と磨崖仏とでは歴史的には石窟が先である。石窟はインドのアジャンタ石窟寺院に始まる。磨崖仏は日本、特に豊後に多い(84ヶ所、400体)。以下、筆者なりに冒頭のwhyについて考えてみた。

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 アジャンタ石窟寺院が作られたのは、前期は紀元前1~2世紀、後期は5~6世紀になる。元々は修行僧が瞑想の為に隠遁した場所として造られたのが石窟寺院である。エローラ石窟寺院もこの近くにあり、5~10世紀に発展する。

 インドの石窟寺院は1,200ヶ所以上あるが八割が仏教寺院である。大半がデカン高原の西側に南北に連なる西ガーツ山脈の懐にある。因みにデカン高原玄武岩質の溶岩台地であり加工し易い。

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 仏教の伝播と共にやがて石窟寺院もインドから中央アジアを経て中国まで辿り着く。更に山東半島から海を越えて朝鮮半島経由、日本の国東半島に中央を経由せず直接到達した(筆者推測)。

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 当初、磨崖仏は6世紀の仏教伝来と共に先ずは中央に伝わり、そこから豊後の地まで広まって来たと思っていたが、それにしても八割とは合点がいかない。この地に古くより仏教文化が栄え加工し易い岩質(火山性凝灰岩)が地表に露出していただけでは納得し難い。日本列島は火山列島である。この条件は他にも該当するはずであろう。

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 以前、「韓国と豊国」(いずれもカラクニと読む)で、百済新羅からの渡来人(製鉄集団)が豊後に定住し様々な文化を伝えた事を述べた。宇佐、国東地方と大野川流域である。仏教文化とともに磨崖仏も同様にこの地に直接持ち込まれたと考えると比較的理解し易い。

 ではその後である。何故、磨崖仏が日本のその他の地域に広まっていかず豊後に留まってしまったのか。以下、筆者の少々強引な新説である。

 その前に朝鮮半島や日本では何故、石窟寺院ではなく磨崖仏なのか。それは西から東に移動する時間の経過によると考えられる。この間に仏教そのものが瞑想的なものから大衆救済へと変化していく。石窟寺院は意味を失っていくのである。かつ仏教は国家宗教になり隠遁的な性格を脱し為政者の保護の下、勢威を張る。大規模な仏教寺院が出来る。だから石窟寺院は磨崖仏へと退化していかざるを得ない。

 さて、仏教を導入した中央では木彫技術が発達する。仏像制作はそれまでの石や金銅から木へ材料転換する。日本では平安時代には木像が主流となる。

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 インドや中国と違って韓国や日本は森林資源が豊富である。森林比率は中国の23%に比較し格段に高い(日本67%,韓国65%,北朝鮮50%)。特に日本は森林多様性に優れ森林の再生力も高い。韓国は針葉樹林比率が高く建築材や仏像用の材料には恵まれない。精々マツしかないが使用し辛い。

 日本には建築資材に最適なヒノキやスギが生育している。仏師の渡来(仏師止利等)と優良木材の出会いが、その木造、木彫技術を発展させた事は間違い無い。飛鳥時代にまさに大規模な木造建築(寺院)が雨後の筍の如く造営され始める。これと共に仏像の木材利用が進展した。これで日本には石造文化の出番が無くなる。

 文明は森林を破壊する。メソポタミアやエジプトは長い間、レバノン杉を頼った。ギリシャ文明もローマ文明も森林の枯渇と共に滅んだ。中国、韓国でも同様である。特に中国は古くから青銅、製鉄に大量の森林を伐採しその再生力を奪った。木造文化は発達のしようがなかったのである。中国では建築資材は日干しレンガが主流になる。仏教もその後は下火になった。

 日本が世界に冠たる木造建築と木造技術を獲得した背景は、その豊富な森林資源の賜物である。千年、二千年のヒノキやスギの大木が無尽蔵にあった。仏教文化の興隆は大規模な木造寺院建築を発達させた。仏塔に象徴的である。中国はせん塔(大雁塔)、韓国は石塔、日本は木塔(五重の塔)と資材が相違する。法隆寺五重の塔が白眉である。幾多の地震もなんのその千年の風雪にも平然として立っている。因みにヒノキが使用されている。

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 韓国と同じ文化圏を共有した豊国(豊後)は早くから中央に比肩する文化が既に開けていた。朝鮮半島から木像文化より先に入った石造文化が長く残り、逆に日本で発達した木造文化と融合していったのではないか。日本の他の地域は最初から木造文化から始めたのである。この違いが磨崖仏の比率に反映したと結論付けるしかない。

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 ただこの結論には一つ問題がある。豊後の磨崖仏の制作は早くても平安時代後期からとされていて時期が符合しないのである。石造から木造ではなく木造から石造となってしまうのである。豊後の磨崖仏の制作時期はあくまで推定である。もっと早くから磨崖仏の制作は始まっていた、ということにしてくれると新説には都合がいいのである。

 

  参考資料:木が創った国(中嶋尚志、八坂書房

 

了