忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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折れず、曲がらず、斬りやすい 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(28)

 日本刀の事である。

 大雑把に、西欧刀や中国刀が、直刀、両刃、片手握りで、“突き、叩き斬り“を専らにするのに対して、日本刀は、反り刀、片刃、両手握りで、”引き斬り“を専らとする。戦い方(騎馬、徒歩)や火器導入の早い遅い(刀の衰退)がその形状や開発を方向付けた。

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 製造面では西欧刀が鉄を溶かし鋳造する(火力の強いコークスが手に入った)のに対して、日本刀は砂鉄からとれる純度の高い玉鋼(たまはがね)を原料とする鍛造による。その優美な形状から世界的に美術的評価も高い。

 名刀と呼ばれるものには伝承や逸話を持つものが多い。刀は宗教的儀式にも使用されて来たように霊性を持つと信じられ、厄除けや病気快癒の効果もあるとされてきた。その由縁であろう。村正のように妖刀と看做され恐れられてきた刀もある。それだけに刀に由来する言葉も多い。”鎬(しのぎ)を削る”、”切羽詰まる”、などがそれである。

 足利義満に始まる明との勘合貿易においては、日本刀を主とする刀剣類は主要な輸出品になった。その輸出総数は二十万本に達したと言われる。兎に角、利幅が大きかった。一本約1貫(約10万円)が5貫前後かそれ以上で売れた。日本刀の存在は倭寇が知らしめたと言われる。武器としての性能の高さや美術的価値から引く手数多だった。たたら製鉄の送風技術の改善に伴う大量生産がこれを可能にしたが、輸出用は品質的には左程には高くなかったらしい。

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 日本刀には”天下五剣”がある。いつ頃から起こったかは定かではない。

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 刀工には”天下三作”がある。これは刀剣愛好家の豊臣秀吉が定めた。剣術も雨後の筍のように出て来た。筆者の知る限り薩摩示現流は脅威の一撃必殺剣である。この流派にとって刀の質などどうでもいい。圧倒的に扱い手の鍛錬と胆力がものを言う。

 さて日本刀の製造地は五箇所が著名である。いずれも原料砂鉄が豊富か刀剣需要地である。山城や大和はそれぞれの寺社が僧兵用に独自に製造工房と刀工を保有した。備前は最大の生産地であり国内一般需要に応えると共に勘合貿易用の主要輸出品として足利将軍家の財政を支えた。

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 豊後も捨てたものではない。名工“行平”や“高田物”を世に出した。特に高田物は守護大名大友氏の数多い合戦需要に加え、足利家同様に海外交易品として大量生産された。高田は豊後大野川河口にあり、河川の舟運を利用して、祖母傾山系の大量の木炭、砂鉄を運び込むことで製造集積地になった。行平の国東半島も砂鉄産地であり古くより製鉄が盛んではあったが、この大量生産を賄うことはできなかった。報告済みの「鉄の来歴に想う」の一部をこの機会に訂正させて頂く。国東ではなく大野川流域が豊後の産鉄の主体であったようである。

 行平の”古今伝授行平”(元名は皮包太刀)は国宝として名高い。細川幽斎保有していたが、烏丸光弘(公卿、歌人、能書家)に譲った。当時、幽斎は歌道の奥義、秘伝を継承する唯一の文化人でもあった。それが関ヶ原戦の折に東軍に付いた為に丹後田辺城に孤立した。”古今伝授”(古今和歌集)の断絶の危機である。後陽成天皇が西軍に対して動いた。その使者が烏丸光弘である。結果、幽斎は無事開城投降し光弘に古今伝授がなった。よって古今伝授行平と呼ばれる。因みに田辺城攻めには西軍に付いた豊後日田の毛利高政(後の豊後佐伯藩祖)がいた。攻め手を緩め幽斎の保護と開城へ導いた。少々強引ではあるが、豊後の高政が豊後産の名刀行平を焼失から救ったと言えぬ事も無い(名刀の多くは戦乱で焼失した)。

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 さて天下五剣があるように豊後佐伯氏にも”佐伯五剣”が伝承している。豊後佐伯地方での最後の当主惟定が保有し藤堂家に仕える時に持参、藤堂家中でも評判を取った。佐伯氏は豊後の名族大神氏の唯一の血族として最後まで残った名家でもある。これらの宝刀を継承した(巴作之太刀を除きその他の太刀の行方は筆者は把握しておらず)。 

 一方、主家であった大友氏はその栄光ある歴史を考えれば多くの名刀を継承していてもおかしくない。意外にも五剣どころか一振りも無いのである。名刀が一振りあったにはあった。ただ秀吉のご機嫌取りに吉統の代に献納してしまった。頼朝伝来の名工粟田口吉光による”骨喰(ほねばみ)藤四郎”である。その伝来経緯は未だ定まっていない。

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 鎌倉から入国してきた大友氏が一目置いたように在地豪族の佐伯氏はこういう面からも名族であった事が窺われる。大友氏改易に連座し豊後佐伯を去る事になった佐伯氏の系譜は、九州、四国、中国に広まって行き、それぞれの地に根付く。備中足守藩士・緒方洪庵の先祖は惟定の弟を祖とする。

 佐伯氏は祖母嶽大明神の化身大蛇の末裔である。家祖惟基を始め代々体に蛇の鱗を持つと言われる。惟定も脇の下に三つ、嫡男惟重には一つ、鱗があったと伝わっている。家紋は左三つ巴、"三つ鱗"である。

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 “逆鱗”という言葉がある。漢の高祖(漢王の妃と天下る龍が交わり高祖が誕生)にも鱗があった。高祖が怒る時にその鱗が逆になった。よって逆鱗という言葉が生まれたのは周知の通り。

 龍は水を得て活きる。佐伯氏の出陣や重要な催事には必ず雨が降ったそうだ。伝承や昔話の多くは中国起源が多い。大蛇伝説やこの場合の鱗もそうであろう。

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 佐伯泰英という時代小説家がいる。”居眠り磐音”という作品があるが、豊後佐伯藩がモデルになっている。主人公の佐々木磐音は我が番匠川に日夜浸かって剣を磨く。世に居眠り剣法の異名を取ることになるが、この川で柴田錬三郎円月殺法ばりの剣術を開眼したのである。使う刀は、備前包平備前長船長義、粟田口吉光脇差)と、残念ながらこちらは豊後物では無い。

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  参考資料:栂牟礼実記

 

了