世界最古の木造建築は法隆寺である(607年創建)。1,400年間、よくぞ残ったものである。これからも大切に保全し後世に残していくことに誰も反対はしないであろうし、古くなったので建て直そうと言う人もまずいないだろう。
その法隆寺以上に古いものがある。地名である。昨今、この地名がぞんざいに扱われてはいないだろうか。地名はそこに人が住むようになって以来、人々と共にある。大概は一千年を超えて使用されて来た筈である。地名は当時の人々の生活の成り立ちや住環境を反映しており民俗学的な価値を持つ。よって近年の町村合併を機会に旧名とは無関係に新名に変更するとすれば迂闊である。それでも最小単位の村落(大字小字)であれば、ほぼその地名は残っている筈である。一方、都市においては行政の効率優先で歴史的地名が番地(丁目、番地、号)に代替されるケースが多い。こうなると村落名は歴史の中に消えていく運命となる。
さて豊後佐伯藩が幕府に提出した郷村仮名附帳(1803年)が残っている。ここに記載の村落名はおそらく中世を越えて使用されてきたものであろう。これに依り海部郡佐伯地方の郷村の成り立ちもまた想像が可能なように思われる。
豊後は九州の中でも郷村数が最も多かった(「恨めしや、太閤秀吉」(29号))。面積そのものは他国と比べて特段大きい訳では無いし、寧ろ平均的であろう。郷村数が多いという事は、一面的な見方であるが、共同体を形成する領域(単位面積)が地勢に阻まれて小さくならざるを得なかったという事ではないか(私見)。佐伯地方も同様に位置付けられる。
佐伯藩内においては、郷村数は23、傘下の枝郷数は134、更に下部の村落数は547に達する。547個の地名が存在するということである。この地は多くの山々とリアス式海岸で成り立っている。その山稜や入江に阻まれている事がこれだけの多くの村落(最小単位の共同体)が存在した理由とも考えられる。
その547個の村落地名を概観して今更ながら気付いたことがあった。それぞれの村落に”原”を含む地名が多いが、その発音は概ねどこも”ハル”となっているのである。全国でも原(ハラ)をハルと発音する地名はほぼ九州に集中しているが、太古よりの朝鮮半島からの九州への移民が関係していそうである(朝鮮語由来、「豊国と韓国」(13号))。また、河内や津留のつく地名も多い。水流に由来する地名であるが、この地方に河川や入江が多いことからも地名として根付いたとしても納得できるところである。
一方、海岸地方には海を通じての他地域との交流を窺わせる名前も散見される(備後、宇良、砠、遠久、等/自信は無い)。伊予、土佐、紀伊、瀬戸内(倉橋島等)との交流の歴史的事実は伝えられている(「苗字に追う歴史」(4号)、「紀州・海人族と鯨の行跡」(14号))。移住者が故地から持ち込んだ名前がこれら以外にも残っていると推察するが未だ検証に及んでいない。
最後に独特な(変わった)地名を列挙してみる。それぞれの郷村内に実に多様な変わった地名が残っている。その由来には不明なものも多いが、成程と納得させられるものもある。これらは長い人々の生活の中で揉まれ定着して来た貴重な”文化遺産”とでもいえるものである。何としても法隆寺同様に現役の地名として保全し継承し後世に残して行きたいものである。
それにしてもこの地にユニークな地名が多い事に驚くばかりである。多くは地形に基づくものであるが、それだけ地形が独特で印象的なものであったということであろう(泥谷口、宇津々、等)。宗教や文化の気配のする地名も多い(祇園、大比羅、四天、神内、歓喜、市福所、等)。一方、成り立ちがさっぱり分からないユニークな地名も多い(見六、後持、志茂、等)。太古に海人族が漂着して以来の古い歴史も関係しているものと信じたい(「地勢と生活文化」(1号、3号))。
これを継承してもらえるに違いない昨今の子供達のキラキラネームにこそ驚かぬる、であるが、新旧相まみえて未来に繋がって行って欲しいものである。キラキラネームもまた、いずれその時代を反映した文化の一項目に加えられることになるのは間違いないのである。
了