忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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歌合に見る中世の生業(なりわい) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(34)

 中世は、都市が勃興し、銭が流通し、交通網が整備され、商品経済が発達し、庶民生活が活況を呈した時代でもあった。その諸相を庶民の生業(なりわい)から窺うことが出来る。これを対象にした貴族社会の歌人達による歌合が伝わっている。七十一番職人歌合(室町後期1500年頃、71組・142職種)、三十二番職人歌合(12~16世紀、16組・32職種)が代表的なものである。もっとも京都中心の世界である為、地方の実態までは分からないが、両者の対比において付随の職人絵図を見ながら庶民生活を想像することは出来る。同じ時期の豊後佐伯地方における生業は如何なる状況であったろうか。

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 歌合は歌人達が職人に仮託して詠み競ったものである(七十一番の題:月、恋、三十二番の題:花、述懐)。歌に合わせて選択した職業であり、拾い上げていない職業も数多いと思われるが、庶民生活の賑わいが窺える(後段に一覧表作成)。

 この頃の京都の人口は守護在京制もあり10万人から15万人程度、応仁の乱で3万人程度まで減少したものの、当時の最大の都市であった。この市場を対象とした職業ということである。因みに豊後は12世紀には精々5万人程度の人口しかなかった。豊後佐伯地方に至っては数千人規模であったと推測する(1600年では豊後20万人、都市としては16世紀に府内5千人、蒲江津5千人とある)。

 よって豊後、特に佐伯地方には市場としての都市もなく、京都ほどには多くの職業を養える規模には至っていなかったであろう。因みに江戸期の佐伯城下の人口比率は5%であったので、佐伯地方の15~16世紀の人口2.7万人(江戸期人口から逆算)として都市人口(城下人口)は1,400人程度、これを支える各種職業がこの時代でさえも多く育っていたとは想像し難い。

 だが、少なくともいつの世もインフラ関連職業は確実に存在する。他国に依存出来ない生活基礎物資・製品は自給自足であったはすである。七十一番職人歌合をもとに、インフラ関連、農林業関連、漁業関連、女性進出関連、専門職業、武器需要、に分類し状況をみた。

<インフラ関連>

 大工、左官、鍛冶は少なくとも日本全国どこでも必須のインフラ関連職業として定着していたはすである。特に佐伯地方には森林資源が豊富で木材伐採・簡易加工を行う杣(樵)、これを運び出す筏士、建築材料に加工し建築に従事する番匠(大工)や左官はいたはずである。檜は建材として杉と並ぶ良材として利用されていたが、檜皮葺や瓦焼職人がいたかどうかは疑問である。屋根は瓦葺(6世紀に寺社用途として百済より伝来、法隆寺が初採用)、檜皮葺(7世紀に皇極天皇の宮殿に初使用、日本独自)、茅葺(太古より一般的に利用)、に大別されるが、檜皮葺は瓦葺より格式が高く佐伯地方に需要があったとは考えにくい。寧ろ、檜皮葺材料としてそういう市場向けに販売した可能性はある。瓦葺は寺社専用でありこちらも製造していた可能性は少ない。因みに番匠(大工仕事)の日当は100文が相場であった。

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f:id:Bungologist:20211003113504p:plain<農林業関連>

 農山村ではその生産物の加工販売は兼業として成立していたと考えられる。筵や草履は米生産の副産物として製造したはずである。生活用のエネルギー供給はもっとも重要である。炭焼や薪売りは当然の生業であったろう。黒木とは竃で蒸し黒くした薪である。草刈は牛馬用の秣(まぐさ)生産のことである。牛車、乗馬、運輸用の牛馬は常に飼育しておく必要がある。京都では大需要があったろう。秣は近郊の野山(森林を草地に遷移)にて専用に生産したであろう。遷移とは自然林(伐採・焼き畑利用)→草地化→松の自然生育(陽樹)→自然林、と植生が自力で変化していくことである。佐伯地方では野山を維持するだけの秣需要は期待できない。精々農業使役用牛馬の秣に限定的であったろう。商売にはならない。筵一枚は70~80文が相場であった。炭は夏場と冬場で相場が6倍近くも相違した(一かい三束:夏130→冬850文)。

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<漁業関連>

 漁業関連については情報が乏しい。絵図の生魚は淡水魚(鯉、鮎)である。海魚であれば塩漬けか干物であろう。因みに塩の値段は100文/4~5升(1俵=1斗とすると200文)、佐伯地方では特に番匠川河口のデルタに塩田が広がり塩生産は江戸期まで続いた。交易品にはなったと思われる。佐伯地方の漁業(一本釣り、網漁)は他国に劣らぬ主要産業になり得たはずである。近隣への行商を覗けば多くは干物として需要地に販売した可能性はある。ただ漁獲量は漁網次第である。中世において漁法や漁網は未発達で販売の制約になったかもしれない。この時期、鰯漁用漁網は未だ紀伊より伝わっていない。釣り糸や漁網は苧(からむし)などの天然繊維(動植物)を利用していた。

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<女性の社会進出>

 中世に特徴的なことは女性の社会進出であろう。様々な職業において女性が活躍した。日本においては古代より女性は政治社会的に男性と同等の扱いをされてきた事実もある。ただ江戸期にはそれは考えられないことである。儒教の秩序を重んじた江戸期にその地位は後退した。佐伯地方の女性はどうであったろう。京都のように都市型の消費製品需要が存在しない。寧ろ、農業生産や漁業生産の労働力の一翼を担うことで手一杯だったに相違ない。都市と地方の女性の立場、意識の違いを職業を通じて理解することは出来そうである。

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f:id:Bungologist:20211003113846p:plain<専門職業>

 需要があるところに専門職業も生まれる。京都には公家や在京守護向けの地方には見られない様々な商品サービス需要があったことは想像に難くない。佐伯地方にも下図のような最低限の専門職業は存在したであろう。森林資源は豊富であり紙生産は主産業になり得たはずであるが、技術が伝わっていたかというと、どうも江戸期になってからのようであり怪しい。

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f:id:Bungologist:20211003114002p:plain<武器需要>

 武器は領国防衛や対外戦争の為の戦略製品である。需要の大小とは無関係である。最優先、且つ、領内生産していたであろう。鍛冶は言うまでもなく刀剣も製造した。

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 さてこれらの絵図の中の男性の烏帽子の有無に留意しておきたい。烏帽子のない職人はどちらかというと賤視され得る人々であった。また覆面姿も同様である。職業の卑賎、あるいは職人の身分も絵図の中に見ることが出来る。

 最後に歌合の例を一番の番匠と鍛冶に見る。月と恋の題があるが恋の歌を見る。必ず職業に関わる表現を入れなければならない。この歌比べは引き分けであった。

 番匠:くれごとにひとりふし木のあらづくりいつ手斧目のあはむとすらん

  ~ 榑(くれ)、節木、粗造、削った板の目

  (日が暮れるたびに独り寝している。恋しい人と逢い難いことよ。)

 鍛冶:うらめしや人の心の荒やすりひかき目にだにのぞかれぬ哉

  ~ 荒やすり、引き掻き目(やすりをかけた跡)

  (あの人の心の荒々しさはうらめしいことよ。その心を桧垣の目越しでさえ覗く ことが出来ない。)

 歌合を通じて中世庶民の自由奔放さが窺われる。江戸期の厳粛で秩序だった社会との違いが想起される。ただ中世は自力救済の世界である。移動も自儘である。その自由を手に入れる為には命さえ張る気構えを必要とした時代でもあった。さて庶民にとって中世と江戸期、どちらが生き甲斐のある時代だったのであろう。

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了