忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

国木田独歩とわがふるさとの峠道

  “本匠路”はすべて山の中である。

f:id:Bungologist:20211113102613p:plain

 峠道は車で通っては情感が湧いてこない。舗装されていては尚つまらない。峠道は人馬に踏み固められた細い土肌の道で、歩いて通ってこそ味わいが出てくる。峠道を越えていく。峠道から降りてくる。峠道で振り返る。峠道で立ち止まる。そこは人々が一瞬、詩人になる場所だ。峠は物事の転換点を象徴する言葉にも使われてきた。だから車で無造作に通り過ぎるところではない。

 我がふるさとの村は山稜に囲まれていて、かつては峠道を越えることなく他の地方に出ては行けなかった。村内の移動でさえ細い谷あいの道を辿るか山越えをするか稜線上を辿ることなしに隣の部落に通うことは困難であった。

f:id:Bungologist:20211113102654p:plain


 その峠道は一般に思い浮かべるなだらかな勾配の峠道とは少々趣を異にする。鬱蒼とした樹木に覆われた山稜上にあり峠そのものは麓からは見えない。それらしき辺りの木々が僅かに窪んでその存在を思わせるだけである。冬季でも南国の木々は落葉しない。常緑広葉樹である。だから四季を通じて誰もこれらの峠を越える人々を遠望することは出来ない。それでも峠を越える人々からは樹間にふるさとの村々が透けて見えてきて心は揺れる。

 ふるさとの峠道は労働の道でもあった。荷馬を曳き、あるいは荷を背負い、炭や茶や椎茸を運んだ。それらの人々の情感はまた違ったものであったろう。峠は一日の苦労の度合いを確認する場所であったに違いない。唯一、村の最奥にある三国峠だけは西南戦争薩軍飫肥藩士族)の多くが命を落とした悲哀の峠道である。

 豊後海部郡は山岳地方である。わがふるさとに限らずいたるところにそういう峠道がある。浦の人々は峠を越えて町に出る。山の人々は川沿いに町に出る。川筋が崖に阻まれるところでは峠道を使った。人々が隣国に出るにはこの地方で最も高い峠道を通る以外に手段はない。高いが故に道は疎林を縫い、人々が越える姿は遠望可能となる。万感の思いで人々はこの峠を越えて行った。だが、振り返るふるさとは山々の谷に沈んで見えることはない。

f:id:Bungologist:20211113102739p:plain


 国木田独歩は教鞭を執る傍ら、そういう佐伯地方を一年にも満たない僅かな時間の中にひたすら歩き回った。心酔するワーズワースの愛した湖水地方に通じる心象風景をそこに見たからである。感じたからである。佐伯地方の豊かな自然とそこに淡々と暮らす人々の光景が、その後の独歩の文学精神を確固として形成したことは間違いない。

f:id:Bungologist:20211113102806p:plain

f:id:Bungologist:20211113102832p:plain

 

 さて、独歩はわがふるさとの村にも二度ほど行脚した(明治26年10月22日と翌年5月6日)。佐伯地方でももっとも峻険な山岳地帯にあるが、ここに名勝銚子八景を訪れる為である。滝もみどころではあるがこの渓谷には地質学的にも珍しい甌穴がある。河床が固い場合に水流の浸食作用でそこに円形の窪みが出来る。これを甌穴というが、銚子渓谷のそれは何万年を経て直径が十メートルにも達する貴重なものである。独歩が当時そのことを理解していたかは知らないが、稀に見る絶景であったことは間違いないだろう。

f:id:Bungologist:20211113103520p:plain


 一度目は秋の紅葉が、二度目は初夏の青葉が、独歩の視界を埋め尽くしていたことであろう。清澄な空気が山鳥の鳴き声を山々に響かせながら遥か彼方まで送り届けていたことであろう。小川のせせらぎはやがて瀑布の音に掻き消され、眼前の圧倒的な風景は独歩の疲れをどこかに吹き飛ばしてくれたはずだ。ただ、わがふるさとにはこの銚子八景以外にも逍遥するに絶景は多い。小半鍾乳洞も発見されてはいなかったが、絶景は素知らぬ顔で姿を見せていたのである。当時の佐伯の人々には知られていなかったに過ぎない。知られていれば独歩の足跡は更にわがふるさとのあちらこちらに刻まれていたはずである。独歩文学の芽生えた重要な地の一角に加えられていたかもしれないのである。

 峠道に戻る。その独歩はどの峠道を通って銚子八景に至ったかということである。佐伯独歩会の「独歩と佐伯の自然」の文章の一隅にひとつ手掛かりを見つけた。書いてある。「朝七時三十分出発、夜の九時に帰宅している。尾間日記には弥生の祇園神社に帰路到るとあるので、現在の道と異なり、切畑、笠掛、三股、小川と山越えの道があったのかもしれない。」。少し興奮した。それが事実であれば、我が家(在、三股)の目の前の田舎道を独歩一行が通り、わがひいじいさん、ひいばあさんと立ち話をしたかもしれないのだ。ただ、ばあさんからはそんな話を伝え聞いた記憶はない。幼い日に遊び興じたあの裏山の細い尾根道を独歩が伝っていったかもしれないのだ。なんとしてもこれは事実にしなければならない。

 冷静になろう。あらゆる可能性は検証しておくべきである。佐伯町から銚子八景に至る峠道はいくつかある。本来であれば最短の道、時間がもっとも少なくて済む道が選択されてもおかしくない。残念ながらその可能性が隣の直川村に二つある。自分が独歩であれば多分このいずれかの道を選ぶに違いないのである。しかもその道は、伝承譚ではあるが、かの平家の落武者、平光世・光圀兄弟が傑物緒方惟栄に追われ牛の背に乗り落ち延びていった道、銚子渓谷を経由し因尾村に落ち延びていった道に仮託可能なのである。なんとも不利な傍証である。

f:id:Bungologist:20211113103623p:plain


 ただ、ここで注視したいのは、事実であって欲しいのは、独歩会記載の文章にある「笠掛と三股を経由した」という記述である。これが事実と確認出来れば独歩が我が家の前を通ったことはほぼ間違いないことになる。独歩が一気に百年の時を超えて身近な人物になる。なんとしても事実にしなければならない。後生だから誰も反証は無しにしようではないか。そういう思いで心はあの裏山の峠道に飛んでいる。

f:id:Bungologist:20211113105121p:plain


 一つ、心に残る話がある。最近、佐伯に暮らす同窓から予想外の一報を受けた。縁者が国木田独歩に関する書籍類の譲渡を考えていて「筆者にどうか」と言っているという。「国木田独歩足跡譜」とある。流石に心が動いた。それ以上にその一言に感動してしまった。未だ国木田独歩に関してはその入り口付近をうろついている筆者に譲渡を受ける資格があろうはずがない。不相応であり、ここは辞退させて頂いた。ただ、その言葉だけで十分に幸せな気分になったのである。これは益々励めとの天の声であろうと受け止め、はちまきを締め直した次第である。

 

了