忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

僻地性と価値転換

 筆者はこれまでの投稿記事の多くに我がふるさとの僻地性を強調し過ぎたのではないかと、少々後ろめたい気持ちがある。ただ、それ故に魅力ある人々を産む地でもあり誇りに思う点も念押ししたつもりではある。まずは東西南北からの佐伯地方の俯瞰である。確かに僻地性(ここでは地勢も含む)は何とも否定しようがない。

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 豊後及び佐伯地方の地勢を今回は断面図で見てみる。古来、豊後は幾多の戦乱の地になったが多くは大野平原を舞台とした。地勢的に侵攻し易い。佐伯地方を襲うには僻地性が故に二の足を踏まざるを得ない。リアス式海岸臼杵八代線が侵入を阻んできたのである。

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 次に佐伯地方の境界線と主要交通路(3本の国道)を念頭に置いて、以下、見てみる

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 下図は佐伯地方の境界線を外側から眺めた断面図である。山岳に阻まれてその内側に入る要路は限られる。

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 参考まで規模は大きくなるが同じ付加体上、北側を中央構造線で分断される土佐についても見てみよう。その僻地性は佐伯地方の比ではない。土佐全体が僻地性を有する。司馬遼太郎はかつての土佐について僻地性どころかその未開地性を表現した。自分達以外の土地の存在について認識が欠如し、そもそも日本という国土があるのを知らなかったと、さんざんである。それほどに古来より隔絶した懸崖の地であった訳である。人間の営みは地勢次第なのである。

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 更に佐伯地方を通る三本の国道上の断面図で見る。海岸線から山岳に向かって高度が上がっていく。まさに僻地性は担保されていて、ぐうの音も出ない。

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 僻地とは、辞書によれば、「都会から遠く離れた地、へんぴな土地、片田舎。」とある。確かに我が佐伯地方については否定しようがない。辺地、辺境という類似表現もある。もっと胸に刺さる嫌な表現では、「交通にも自然条件や経済条件にも恵まれず、社会的な孤立や貧困の問題を抱え近代文明の恩恵を受ける事が少なく、医療や教育の充実も困難である。」地域となる。反駁したいがその手段を思いつかない。更に具体的に述べると、山村振興法や僻地教育振興法などの適用を受けている地という事である。そこまで言われると反論の意欲さえ減じられてしまう。

 ただ、そういう世間での扱いを仕方ないと考えるか、あるいはそれが全てではないだろう、と考えるかで未来が違ってくる。

 日本では多くの地方が同様の立場に置かれている。地域振興対策は行政当局にとっては最優先課題である。換言すると行政間での競争が激しいという事である。成功事例を耳にすると同じ事をやろうとする。改革改善への信念が希薄だからである。行政もビジネスの世界同様に競争の少ないblue oceanを目指さなければならない。横並び、人真似では結局は延命策であり最後は死屍累々の道である。

 筆者は、行き過ぎたIT化社会の現在こそ、この僻地性を価値に転換出来るいいタイミングにあると考えている。都会にいると大抵のものが容易く手に入る。幸か不幸かコロナ禍がこれを加速した。家にいても大抵のサービスが手に入るようになった。仕事さえもテレワークで通勤や無駄な業務から解放される好循環を生み出した。IT化を更に加速させ生活様式が一変しつつある。この潮流は今後も変わらないだろう。

 一方、その負の側面も看過できない。若い世代ほど心の空疎感が広がっている様に見受けられる。IT機器への極度の依存性、そこに媒介するソフトの非人間性や射幸性に心が弄ばれている事に皆が気付きつつも逃れられない。人間の本性は心の豊かさの追求である。祖父母達は物理的に貧しくとも精神的に遥かに豊かであった。その表情に明らかにそれを見て取れた。

 更なる社会の意識変革を促す潮流も起きている。SDG’sの達成に向けた人間行動である。筆者の定義では、その本質は、「本来的な生命活動の維持に不可欠な自然を大切にする心を呼び戻す事」である。

 そこに回帰する道がある。僻地性である。纏わりついた不要な物を捨てさせてやる手伝い、心の充足を手に取れる機会の提供である。それは僻地性の価値転換により実現可能である。どんな僻地でもインフラは都会並みにある。道路はどんな細い道でも舗装され僻地性が故に情報網はCATV、インターネットと寧ろ早くより整備され不足は無い。高度成長期より見直される事なく都会の税金がふんだんに地方に注ぎ込まれてきたのである。インフラに限って不便はない。過疎化の進展で住宅も余っている。宿泊施設やセカンドハウスにも流用可能である。最大の地方産業は医療ケアである。

 静謐である。自然の音が圧倒的である。漆黒の闇がある。満天に星空がある。空気が美味い。隣人が老齢である。よって生活の知恵が只で手に入る。心の空疎間は一気に払拭出来ること間違いない。

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 さてその為の僻地性の競争手段である。これは迂闊に披露出来ない。競争相手に先取りされてはたまらない。例えば四季折々に”リピーターを呼び込む質の高い僻地イベント”もその一つかもしれない。僻地性を強調することがポイントである。心を洗いに行きたくなる魅力を含むことが前提である。腹案があるがここでは内密にしておこう。

 僻地性は売れる時代になったと早く気付く自治体がその価値を最大限に享受出来ることは間違いないのである。無論、歴史文化の香りが漂っていると尚よい(この地にはその材料がいくらでも未だ落ちたままにある)。

 

了