忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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豊後探訪・国東と佐伯

 「隣の芝生は青い。」、という言葉がある。

 

 豊後最北の国東地方と最南の佐伯地方、佐伯の人間にとって国東は気になる存在である。古来、豊後の南北の地にあって相互に交流する機会はほぼ絶無である。まるで民族が違うようなものである。筆者には生まれてこの方、そういう思いが強い。余談になるが、中学時代にテニスで県体に出場した事がある。試合相手が下毛郡からのチームであった。下毛郡は昔は豊前に属した。既にお互い大分県に属してはいたが何か不思議な感覚(違和感かもしれない)を覚えた記憶がある。今なら”大坂なおみ”は日本人なのか、といった感じかもしれぬ。国東もその豊前に同じ印象である。それ位、心情的にも物理的にも距離感のある地なのである。

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 国東郡、海部郡(佐伯地方はその南半分)の名は律令制下の国郡制に始まり豊後八郡の内の二郡である。別府湾沿岸を除けば南北両郡で豊後の海岸線の全てを占める。そのリアス式海岸は海人族が棲みついた地である点でルーツは重なる(と信じている)。昔は同族であったのにかくも遠い存在になってしまった。

 歴史文化的な成立ちはかなり相違する。国東郡朝鮮半島との交流がより深い。西隣りの豊前宇佐郡に様々な文化を持ち込んだその半島からの移住者に大きな影響を受けて来た。それ故に大和政権もこの地方に一目置き歴史文化は豊後にあって最も古い。日本においてさえもそうかもしれない。

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 一方、海部郡は海人族の純性が濃く残る。周辺からの影響はほぼ皆無である。歴史文化においても後進地と呼ばれて否定する根拠に乏しい。古来、独自に生きる道以外の選択肢に乏しい地であった。だからこそ国東郡は気になる存在なのである。ある種の憧れに近い。国東の人達にとって佐伯地方は蛮地であったやもしれぬ、意識にさえ登らなかった可能性は高い。

 火山活動による国東郡、プレート移動による海部郡と、その地勢上の成り立ちも違う。前者は円錐状のなだらかな地形、後者は襞状に圧縮された険しい地形と著しい相違がある。それは耕作可能面積や地下資源にも影響を及ぼした。陸と海への依存度の違い、生活文化の違いとなった(はずである)。

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 国東郡は西に豊前平野に隣接するが、そこには宇佐神宮という強大な宗教権威、荘園領主が根を張って来た。海岸線は周防灘に面し対岸にも歴史的に大内氏や毛利氏といった強い政治権力が存在した。南方には別府湾が大きく割り込んでいて、その対岸に豊後の国府や守護大友氏の居館が置かれた。故に、国東郡は三方をこれら勢力に囲まれ地政学的に無視され得ない地となり、常に豊後の歴史を賑わして来たのである。羨ましくない筈がない。

 海部郡、特に佐伯地方は豊後最南に位置し周辺に見るべき権力が存在しない。峻険な山陵に阻まれて南西隣の日向との交流機会は殆ど困難である。北側にも山陵が横たわり交流は狭められ、独自な道を歩む以外の術に乏しい。東側の豊後水道対岸、南伊予との交流が唯一の異文化交流とも言えるものであった。もっとも伊予も強い政治権力や歴史文化に乏しい同類の海人族の地である。お互い歴史を賑わすこともなかった。

 そういう北と南の両郡の間、豊後の主要地域に主たる政治勢力が存在し、南北間の相互交流の機会は今に至るまでほぼ皆無である。だから国東郡は気になって仕方がない地なのである。会えないと尚恋しい人情に通じる。

 政治面でも相違が大きい。国東郡には古墳も多く残る。富の蓄積が可能な地だったということである。幾筋ものなだらかな谷地に古くから多くの豪族が割拠した。その地政学的な重要性も加わり、守護として鎌倉から入国した大友氏の鎌倉以来の家臣や庶子がこれら豪族に取って変わった。最大勢力が田原氏であるが、大友本家を脅かすまでに勢力を拡大した。北部九州や周防の周辺権力との連携が容易だった事も独立心を養ったはずである。

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 佐伯地方には国東地方ほどの古墳は存在しない。ほぼ無いに等しい。太古より豪族を生む素地、富を蓄積する生産力が乏しい地であったという事である。後世、豊後の中心、大野川流域に勢力を張った大神氏がこの地に侵入し権力を確立、唯一の豪族となった。その大野川流域の大神系一族も多くは大友氏の庶子に取って代わられる。結果的に大神系佐伯氏のみが長らく豊後で孤塁を守った。その一点に誇りを込める以外にないのである。

 宗教面も著しく相違する。国東地方は曹洞宗、佐伯地方は臨済宗の割合が高い。豊後にあってもそれぞれが特徴的である。今は民衆文化と武家文化の濃淡の差によると考えておくしかない。

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 豊後にあって両者はかように悉く対極にある。

 国東郡ベンチマークしていてはたと思い至った。むしろ我が佐伯地方こそ実に独特な生活文化が息づいている地なのではないか。我々がそれに気付いていないだけなのではないか。それこそ希少性ではないか、と。

 この週末から国東入りする。この認識差を国東の知人に問うてみるつもりでいる。

 

 「吾が仏尊し。」、という言葉もある。

 

了