忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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海部と山部 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(39)

 豊後佐伯地方はリアス式海岸と広大な山岳地帯からなる。かつて佐伯地方は海部郡に属していた。海部(海人部)は、古代朝廷の職業部(品部)の一つである。この海部はまた漂泊者や中央権力からの逃避者(平家、河野氏、長宗我部氏、法華津氏、御手洗氏等)が住み着き独自文化を形成してきた地域でもある。

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 この佐伯地方に最大の水系を有する番匠川が流れている。その源流に近い最奥に”山部”という地区がある。本来、山部(山守部)も品部の一つであるが、佐伯地方の山部がこれに由来しているのかは分からない。

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 この山部を含む山岳地帯を巡ってみたが、兎に角、懐が深く広大である。山部の人々は何故、このような山深い場所に住み着いたのか、如何に暮らしを立てて来たのか。これを調べればその由来も判然とするのであろう。狩猟採集に始まった事は間違いない。猟を主に焼畑耕作の時代が長く続き、限られた土地に田畑を切り開いて来たのである。近世になって漸く山林業で暮らしを立てられるようになったが焼畑は昭和の時代までも未だ続いていた。

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 品部における”山部”は山林の産物を貢納する部であるが、中央との地理的関係性を考えるとこの地はこれには該当しないような気もする。ただ隣接する山岳地域には杣(古代から中世にかけて権門勢家が建設用材の伐採地として設置した山林)の範疇に含まれる木地師の痕跡も残っている。

 佩楯山(754m)はこの地域で最も高い山である。古代から中世にかけて軍事通信用の烽火が頂上に置かれていたので“灰立て山”となった。この山の側を古代の官道が通っていた(江戸期の日向街道に当たる)。この地は中央権力に歯向かう隼人の住む土地に近接していたことも烽火台を立てた理由でもあったろう。遥か下流の佐伯湾はヤマト政権の隼人対策の軍事拠点(物資供給基地)としても最適地であった。佐伯(佐伯部)の名前の起こりである。中央権力が側に見え隠れしないでもない。

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 交通(道)に焦点を当て調べていると番匠川中流域でこの山部と海部を分断する”交流の壁(筆者による仮称)”を造っていたと気付いた。番匠川が地盤を削って蛇行を繰り返すその曲部は全て固い岩盤で覆われた断崖となっていて明治期になるまでこの地に川沿いに道を確保する事は不可能だった理由が分かるのである。今でもその痕跡が残る。上流の広大な山間と海に開けた下流地域とを繋ぐ手段が乏しかったという事である。つまり道は番匠川沿いには出来なかった。特異な地勢や頻発する川の氾濫を考えると恒久的な道を確保する事が困難である事に加え財政的にも無理であったろう。

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 この地方に特有の地質が故に河川は深い渓谷を刻んだ訳である。昔は車が前方に見えると手前で待機せねばすれ違えない細く長い崖道が多かった。昭和期においてさえ、車社会到来前はどの部落でも山越えの道が生活を支えていたのである。この懸崖は、皮肉にも、昨今、九州でも人気のロッククライミング訓練地になっている。

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 それにも関わらず上流の山間地域には平安期まで遡ることの出来る石造史跡が残っている(宝塔、宝筐院塔、五輪塔、等)。平安期に建立された神社仏閣もある(天神社、前高神社、三竃江神社、等)。古くより中央の文化が入っていたという証左である。文化度が高いのである。これらの文化はてっきり番匠川を遡って入って来たと考えていたが、上記の通りこの考えは捨てざるを得ない。また交流の壁に当たる地域にはそのような古い史跡が乏しいのである。

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 つまり、海部と山部、それぞれの交流の方向は逆向きになっていたのである。山部にとってのその手段は峠道である。この地に限らず日本の多くの山岳地帯の道は尾根道であり峠越えの道であったろう。谷(渓谷)道は余程の利便が伴わない限り合理的ではなかった。海部にとってのそれは海路である。

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 上図の通り、この山間部からの峠道の多くは東の下流に向けてではなく北に向かっている。その先は海部郡ではなく大野郡である。豊後の中でも古くより先進文化が開いていた地である。両郡の間には東西に地質学にいう臼杵八代線が走り、延々と続く山稜で隔てられている。山の人々はこの山陵を北に越えて行ったのである。先進地・大野郡との交流を確保して来たのである。その下流と同等かそれ以上の文化が維持されて来た背景である。だとすると、案外、山部も品部に由来するのかもしれない。

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前高神社(平安期)、長楽庵参道(平安期)、宿善寺のナギ(江戸初期)

 我が海部郡にあっては”海部の民俗”に焦点が当てられて来たが、この山部の存在をもっと語ってもいい。佐伯地方の大部分を占める”山部の民俗”をもっと語らねばならない。果たしてこの地の山部は品部に由来するのであろうか。少なくとも杣(古代から中世にかけて権門勢家が建設用材の伐採地として設置した山林)の範疇に含まれる木地師がこの地にいた事は事実である。このような地に中央に管理される”山部と称される部民”がいたか否かは引き続き興味深いテーマである。

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 ”交流の壁”の中に生まれた山の民の端くれであり、一方で海の民への羨望を抱いてきた筆者にとって、山の民俗に焦点を当てることは己のルーツ研究に直結することをも思い知らされた。

 歴史あるこの山が衰退の一途にある。山の呼び声が聞こえてこないだろうか。この地の先人曰く、"山が滅びると海も滅びる"のである。

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