忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

名字に見る水運と人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(41)

 昨年来、豊後探訪において疑問に感じていたことがある。佐伯地方が属した豊後海部郡(佐尉郷、佐加郷、丹生郷、蒲戸郷)の郡衙(政庁)が豊後国衙(国主所在地)や大分郡郡衙の近傍、大野川河口近辺に置かれていたという事実である。穂戸郷と呼ばれた佐伯地方はそこから遥か遠方になる。何故なのだろうか。つまり未だ手が付けられていない名目上の所属ではなかったかということである。この当たりは大和朝廷に歯向かう隼人の勢力に近い地域でもあった。辺境対策の軍隊である佐伯部が地名の由来ということを見てもそういうことにしかならない。少々強引ではあるが今に伝わる名字の中にその傍証を探せないかと考えた。

f:id:Bungologist:20220209163205p:plain

 古代から中世にかけて中央に年貢を運ぶ為には水運が重要であった。これを守るのに水軍が欠かせない。当然、水運と水軍を統べる勢力が現れてくる。この営みへ参加する人々が集まってくる。

 ムレ(牟礼)、ハル(原の発音)、ツル(津留)は古朝鮮語に由来すると言われる。九州の地名に多く見られる。ツル(津留)は水に関係し、”川沿いの小平地”を意味する。因みにムレは山や高いところを意味する。九州は古くより朝鮮半島からの渡来人が棲みついたが、豊後の大河大野川流域や豊後水道に面する海部郡一帯にもこれに由来する地名が多い。

 さて、古来、豊後の水運は大野川水運と豊後水道水運が双璧である。鎌倉より大友氏が守護として入国するまでここを大神一族が統べた。かつては源氏の平氏討伐の為に大量の兵船を提供する程の大勢力であった。上流より大神一族の緒方氏、大野氏、戸次氏、豊後水道沿岸には佐賀氏、臼杵氏、佐伯氏、等が蟠踞したが、佐伯氏を除いて悉く大友氏の庶子に代替されていった。

f:id:Bungologist:20220209163246p:plain

 この海部郡は大野川の河口から南岸を境界線とした。因みに遥か内陸の柴山村はその北岸にあるが海部郡の飛び地であった。そこまで舟運が伸びていた。海部郡がかつては大野川水運を線で牛耳った証でもある(碩学の資料に基づく)。大野川流域には中津留、大津留、等の津留のつく地名が残る。河口にある鶴崎も”津留先”だった可能性はないだろうか。大分川流域にも津留のつく地名がある。豊後は宇佐地方を始め渡来系の文化(氏族)が根を張ってきた土地ということでもある。

f:id:Bungologist:20220209163339p:plain

 大野川河口辺りは古代より豪族の勢力地であったと思われる多くの前方後円墳や円墳が残る。一帯は豊後でも明らかに政治経済の中心地であった訳である。海部郡の郡衙もこの辺りに置かれていた。つまり郡衙の遥か南方にある佐伯地方はその領域に含まれていたか怪しいものである。手付かずのヒンターランドだった可能性が高い。後世、この河口辺りは高田荘と呼ばれ鎌倉期には東国武士団が乗り込んで住み着いた。高田物と呼ばれる刀剣の盛んな製造地でもあった。江戸期には大野川河口から佐賀関一帯は水運の要地として九州各藩の飛地が置かれた。この辺りが如何に水運の要衝であったかが分かる。

f:id:Bungologist:20220209163529p:plain

f:id:Bungologist:20220209163654p:plain

 この大野川や豊後水道沿岸の人々は農業や漁業の傍で当然、水運に関する仕事にも従事したはずである。中世において水運は水軍と概ね同義語である。厳密には水軍は豊臣徳川期の呼称である。それ以前は海賊と言う。そういう人々がこれらの地に多く住んだ。大友氏の入国、豊臣氏による改易の歴史の中でこの地に水運と水軍を統べた大神一族は衰運を迎える。特に水軍は徳川期になると不要になった。大友氏に討たれた人々や住み辛くなった人々は未だ強い権力の及ばない新天地を目指して移住していったに違いない。自主的に移住して行く人々もあったかもしれない。豊後水道を南に逃れていったはずである。そこにヒンターランド、佐伯地方があったからである。名字を辿るとそれが分かるのである。大神一族に限らず、豊後以外の戦国の敗者、特に水軍として勢力を張っていた人々が流れ落ちて来た事もそれによって明らかなのである。

 あらためて佐伯地方の名字を見てみよう。大野川から河口の海岸辺りを起源とする名字として、大津留(大鶴)、成松、吉岡、神崎、がある。ひょっとして成迫(成松と迫の一体化)もそうかもしれない。かつてこの高田荘に上陸して来た東国武士、三浦、工藤、染矢もそうである。共に水運に乗って流れてきたに違いない。

f:id:Bungologist:20220209163740p:plain

f:id:Bungologist:20220209163847p:plain    

 また今は大分市に属するこの旧高田荘に市内で最も多く住むその名字と同じであればこれもそうであろう。小野、渡辺、山本、高橋などがそれである。明らかにこの地との”水運の繋がり”である。

f:id:Bungologist:20220209163937p:plain

 更に、隣国の日向、伊予、との比較においても明らかに出来る。上位の名字を見ると大分県とは明らかに相違するが、佐伯地方には重なる名字が多いのである。明らかにこれらの地から移住して来たと推測が可能である。河野、山本、渡辺、等がそうである。小数だが菅もそうである。今治市に多い。

f:id:Bungologist:20220209164007p:plain

 さて、これらの何れにも該当しない名字が佐伯地方に固有のものと言える(全国に人数が少なく佐伯市に最も多い、古くより外から移住してきた人々でこの地に特別に人数が多いものを含む)。成迫、狩生、泥谷、高司等である。それでも尚、それらにさえ該当しない名字がある(全国に人数が多く、大分県の中で佐伯市に最も多い)。山田、柴田、石田、高野等である。筆者の名字もここに入る。だからそのルーツが気になって仕方がない。何だか穏やかならぬ気分である。佐伯をこよなく愛する者だからである。