忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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"くるすば"で迷走 前編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(42)

 筆者の生まれた山間の村落(豊後国・海部郡・旧中野村支郷三股村)の目の前で佐伯地方最大の河川・番匠川に”久留須川”が合流している。また、この村落には大分県で最も”柴田姓”の人数が多く集住している。昔の大字に該当する単位である。どうして久留須川と言うのだろう。番匠川の謂れは凡そ自分なりに解明したが久留須川のそれは未だ判然としない。どうしてこんな過疎の一村落に柴田姓が固まって多いのだろう。この二点が迷走の始まりである。

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 九州各県に市町村単位で柴田姓の最大集住地を調べると福岡県に突出して多い。特に北部海岸沿いに集住していて、あの”伊都国”の糸島半島周辺に圧倒的に多い。また、その多くがかつてのキリシタンの集住地と重なる風にも見て取れる。何か関係があるのだろうか。

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 さて、中世に遡り我が村落の周辺地域を俯瞰して見る。郡境を越えた山の向こう側は大野郡・野津地方である。かつて日本最大のキリシタン布教地だった(最盛時には3,500人との報告がある)。この大野郡には、”くるすば”と呼ばれる地が三か所、残っている。何故、そう呼ばれてきたのか近年の調査まですっかり忘れられてきたようである。”クルスの場”、つまりキリシタンの祈りの場所を意味するらしい。大友宗麟が亡くなった津久見市にもある。岩手県奥州市水沢区”福原”(元は”見分”という地名であった)にも”くるすば”と呼ばれて来た土地がある。それ以外にもキリシタン地であれば”くるすば”の地名は残っているのであろうが知らない。野津地方にはクルスが転訛したと思われる、あるいはこれに関連しそうな地名も多いといわれる。烏山(カラスヤマ)、久原(クバル)、黒坂(クロサカ)、福原(フクバル)などである。”福原”は奥州市と繋がる。奥州市の福原は”福音の地”として”見分”から改名されたとの伝承がある。

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 野津地方と我が村落の間にはよく利用されて来た峠道がある(“ふるさとの人々”、"海辺と山部”に別掲)。そこに向かう狭隘な村落(宇津々:筒状の谷地の意味)に伝承譚がある。かつてここに”異人達の隔離施設(イエズス会の宣教師であろう、隔離より隠棲が相応しい)”があったと(”隠れ棲む人々”に別掲)。この地は大友氏ともども改易された佐伯氏の家臣達が帰農先に選んだ土地の一つでもある。確かに隠れ里のような地勢になっている。この谷を下り出て番匠川を渡ると我が村落と久留須川はごく近い(冒頭図)。この久留須川を遡ると周辺にキリシタン墓地が散在するようになる。更にこの上流の赤木川が合流する場所に”久留須”地区がある。野津とこの地域は交通、キリシタンの両面において容易に繋がるのである。”くるすば”と”くるすがわ”(久留須川)の名称が偶然の一致では無いと素直に信じる気持ちにならないだろうか。

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 そこで更に全国に”久留須”姓を調べてみた。全国に300余名しかいない。鹿児島県の川内市(含、甑島)及びその周辺に集住している。ここもキリシタンが住んだ地である。多くのキリシタン史跡が残っている。久留須はキリシタンから派生した名字と考えざるを得ない。不思議な事に川内市の隣の出水市は鹿児島県で柴田姓が最も多い。ただこの地方と、柴田姓が多く、側を久留須川が流れる佐伯地方との間に歴史的な繋がりは見出せない。

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 ”くるすば”のある岩手県奥州市からほど近いところに秋田県横手市がある。東北最大の柴田姓が集住する。また、この奥州市と福岡県筑後地方の太刀洗町とはキリシタン殉教者、”後藤寿庵”で繋がる。作家箒木蓬生の”守教”のモデルになった人物である。筑後地方は大友氏が支配した影響でキリシタンが多く住んだ。大友氏衰亡後はキリシタン大名の小早川秀包(毛利元就の9男)が久留米城を築き一帯を領した。妻は宗麟の娘である。太刀洗町には、この寿庵が伊達政宗に仕え奥州市の一角(見分、その後、福原)を知行地としたとの伝承が残る。見分から福原に改名したのは寿庵である。豊後出身の”ペトロ岐部”も寿庵の後を継いでこの地で布教したが仙台で捕縛されている。因みに伊達政宗の家臣、支倉常長は現在の宮城県柴田郡に青年期を過ごしている。この大刀洗町の隣の久留米市にも柴田姓が多い。キリシタン地に多い柴田姓とキリシタンの間の何だか気になる事象である。

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 さて豊後・野津地方の国人領主に柴田氏があった。一族の”柴田礼能”は豊後のヘラクレスと呼ばれた大友氏の信望厚い武将であり、こちらもキリシタンであった。豊薩戦において臼杵で戦死している(1586年)。上述の筑後地方の史籍や古文書には柴田礼能の名前が多く見られるそうである。その兄が野津衆・柴田氏の当主”柴田紹安”である。豊薩戦では佐伯地方宇目にある朝日嶽城を任されたが島津氏に寝返った。最後は同じ島津氏に殺された(1586年)。この時期、多くの豊後の武将が島津氏に寝返った事が島津氏の豊後進攻を容易にした。既に大友氏の信望は地に落ちていたのである。佐伯地方を領した15代・佐伯惟定の武将がその紹安の居城(星河城、我が峠道を越えたところにある)を落とし、籠城していた妻子を佐伯・直川赤木の西定寺(1523年創建)で斬った。野津柴田氏主家の断絶である。この寺の目の前を久留須川が流れ下流に久留須地区がある(前掲図参照)。

 弟の柴田礼能は五男を得た。嫡男は父・礼能とともに豊薩戦(臼杵城攻防戦)で戦死した(1586年)。三男、五男は大友氏最後の合戦地、石垣原(別府市)で黒田如水軍の前に敗死した(1600年)。次男、四男の行方は分からない。“柴田姓とキリシタン”、この話は長くなりそうである。この続きは次回としたい。

 

了