忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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"くるすば"で迷走 後編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(43)

 全国の柴田姓の集住地について整理しておく。九州では福岡県に圧倒的に多く、中でも糸島半島周辺に集住する。大分県では佐伯市が最多数であり、中でも本匠地区に集住する。そもそも柴田氏の祖は九州には無い。奥州の柴田氏、あるいは尾張の斯波氏が主流である。要は本州にいくつかある柴田氏の一つが九州に渡って来た事に始まるはずである。この点については現時点では知見が無く後回しにせざるを得ない。

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 最近入手した資料では我が佐伯市本匠地区の柴田氏は野津・柴田氏とは無縁で隣国日向臼杵郡(延岡地方)の土持氏の家臣であったとなっている。大友義鑑(宗麟の父)に仕え、大友氏滅亡(1600年・石垣原合戦)と共に我が村落に帰農した。まずはこれを我が柴田姓のルーツと認識しておく。

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 その土持氏は宇佐神宮神職・田部氏を祖とする。宇佐神宮造営に際し、田部氏が盛った土が崩れなかった為に欣明天皇より”土持”の姓を賜ったことに始まる。宇佐神宮は九州各地に多くの荘園を持っていたが、日向国においてはその25%が宇佐神宮の荘園であった。土持氏は今の延岡地方の臼杵荘に荘園管理の為に派遣され土着し豪族に成長した氏族である。日向・伊東氏と拮抗した戦国大名でもある。

 我が柴田氏は野津・柴田氏と同様に石垣原合戦に大友麾下として参戦している。また、何故、帰農先にこの地(我が三股村)を選んだのか、予めこの場所を知っていたとしか考えようがない。野津地方との因縁が見え隠れする。キリシタンとの関係も未だ気になるところである。

 野津衆・柴田氏の当主・柴田紹安を滅ぼした佐伯氏家臣にも柴田氏がある。こちらの柴田氏も佐伯氏と土持氏との隣国同士の交流(両者は古くより姻戚関係にあった、”政略結婚の是非”で別掲)を通じて佐伯地方に移住して来た可能性が高く我が同類と見做していいだろう。

 宮崎県ではかつての土持氏の拠点、延岡市に柴田姓が最も多い。今でも柴田姓の集住地は土持氏の居城跡(松尾城)の周辺である。最後の当主・土持親成は高城・耳川戦(1578年・大友、島津間の九州決戦)の前哨戦で大友氏に討たれ土持氏は断絶した。佐伯氏の執り成しも叶わず、”豊後の浦辺”で自害させられたとある。その室は13代・佐伯惟教(15代・惟定の祖父)の妹である。浦辺とは果たして佐伯氏の領内であったに違いない。妻の故地でもある。大友氏は佐伯氏にこの役目を押し付けたのではないだろうか。領地を接する両家の悲哀を禁じ得ない。

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 九州での柴田氏の集住地は偶々かもしれないが、キリシタンのそれに重なっていた。唯一、この土持・柴田氏のあった日向・臼杵郡(延岡)にキリシタン集住の痕跡は無い。大友宗麟はこの地にキリシタン国を立てようとした。その為にこの地の神社仏閣の破壊の限りを尽くし、その一部は教会建設資材に転用された。貴重な歴史文物もこの時に焼失した。歴史事実を伝える証拠が闇に消えて行ったのである。この理想郷建設は島津勢に大敗を喫し一夜にして夢と消えてしまった。宗麟や宣教師達は逃げるように豊後に退散したが、今もその名残の”無鹿(むじか)”という地名だけは残っている。ラテン語の”音楽”が由来である。土持氏に加え、この地の人々にとっては何とも空しい仕打ちである。この地にだけはキリシタン信者が現れようはずがない。

 九州の柴田氏は果たしてキリシタンと関係があったのであろうか。少なくとも野津・柴田氏はそうであった。ただ土持・柴田氏は以上の状況に鑑みると関係がなさそうではあるが、大友氏に仕えた我が柴田氏については、それよりはるか以前、宗麟の父の時代に豊後府内に移っているから全く否定する訳にもいかない。

 さて、そもそもその日向・延岡に柴田氏があった背景が分からない。これが分れば九州の柴田姓のルーツが解明出来るかもしれない。入手した資料に当主の室(妻)の実家が記載されている。戦国期の三代までのその名字を探った。筑後地方、中でも久留米市に多い。キリシタン地である。ただ筑後地方と延岡地方の関係が分からない。室を筑後地方から迎える必然性が見当たらない。偶々重なった名字なのであろう。

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 原点に戻る。土持・柴田氏の主家である日向・土持氏は宇佐神宮神職の出である。日向には宇佐神宮の荘園が多く、土持氏はここに派遣されて土着した。少々強引ではあるが、これに柴田氏も随行してきた可能性を探るしかない。

 大神一族が勢力を張った豊後大野地方の緒方荘も宇佐神宮の荘園であった。大神一族は日向地方の北部にも蟠踞した。荘園を巡ってこの両者は反目関係にあり、棟梁の緒方惟栄は九州に平氏を追ったついでに平氏側にあった宇佐神宮を焼き討ちするに至っている。怨恨である。

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 その大野地方の隣の野津地方は野津院と称する国領であった。宇佐神宮より大野郡緒方荘、臼杵郡臼杵荘に派遣された宇佐神宮荘官の関係者に柴田氏があり、緒方荘を大神一族に奪取された時に一部は隣の野津院に逃れ(野津衆・柴田氏)、一部は日向・土持氏と共にあったという理屈は立たぬものであろうか。柴田氏は土持氏ほどの幹部ではなくも荘園管理の吏僚ではなかったか。そうすれば野津・柴田氏と土持・柴田氏のミッシングリンクも繋がってくる。豊後及び日向柴田氏のルーツは宇佐地方となるのである。

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 土持氏の祖、田部氏は古代朝廷の職業部の名前であり、天皇家の直轄地である”屯倉”の水田耕作を任された者の名前である。よって全国に所在する。九州には筑後豊前、肥後の三ヶ所に置かれた。宇佐神宮豊前にある。九州における屯倉の位置は下図のとおりである。よって現時点では”豊前屯倉宇佐神宮”をkey wordに柴田氏のルーツを探るしかない。残念ながらこの時点で”くるすばとキリシタン”のそれは消滅してしまった。余録ながら佐伯地方本匠地区の地名にある”山部”は部民であった事がこの資料で判明した(“海部と山部”に別掲)。

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 はたと行き詰った。その豊前地方には柴田姓が極めて少ないのである。

 この続きも次回に先延ばしにせざるを得なくなった。次回は何とか結論を見出したい。