忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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"くるすば"で迷走 続編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(44)

 前回、柴田姓のルーツ探しは宇佐地方まで来て行き詰まってしまった。この地方(宇佐神宮のある豊前)には柴田姓も田部姓(土持氏の祖)も極めて少ない。手掛かりがない。よってこの線は一旦放置しておく(下図に整理)。

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 あらためて九州最多の柴田姓が集住する福岡県糸島半島周辺に目を転じてみる。無論、本筋である本州の柴田氏の動向についても見ておく必要もある。そもそも柴田氏の主流(奥州柴田氏、尾張斯波氏が著名)は本州にあり、九州の柴田氏はそこから渡ってきたはずだからである。

 福岡市西区、西隣の糸島市に柴田姓が多く人口比率でも一目瞭然である。何故であろう。地元の姓氏研究家に聞けば分るのであろうが何だか面白くないので我流を通す。まずは唯一の当てとして宇佐神宮との関係性である”八幡宮をkey word”に調べてみた。何と驚くべき発見があったのである。これまでに全く知見がなく偶然の賜物であることを明言しておきたい。

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 福岡県西区の橋本地区に橋本八幡宮がある。この由緒に奥州の柴田氏が出てきたのである。橋本神宮はその後紅葉八幡宮として隣の早良区遷宮している。因みに西区も早良区も旧国では早良郡に含まれる。残念ながら隣の糸島市には関連性を見出せない。とにかくこの線を攻め手とせざるを得ない。

 奥州柴田氏が”故あって”一族郎党を引き連れて陸奥国柴田郡からこの地に移住して来たと書いてある。つまり九州を抜け出して柴田氏主流の一つ奥州柴田氏に一気に飛ぶことが出来るのである。その背景を調べてみる必要がある。

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 陸奥国柴田郡に移動する前に糸島半島の政治動向についても見ておく。奥州柴田氏が移住してきた11世紀には筑前国は大蔵氏(後の原田氏)が管領として治めている頃である。その後、鎌倉御家人の武藤氏が鎮西奉行として入ってきている。柴田郡を出てから100年後のこの時期には既に柴田氏はこの地に集住しているはずであるが、この地域の豪族に柴田氏の名前は見当たらない。武藤氏の後の大内氏の時代も同様である。後の黒田藩士にも柴田氏の名前は無いようである。柴田氏創建による橋本八幡宮はその後黒田藩(福岡藩)の守護神へと発展、紅葉八幡宮として遷宮している。西の紅葉宮、東の筥崎宮、南の太宰府天満宮、と並び称されるに至っているのである。一族は少なくともこの地においては武家ではなく神職を生業として生き抜いてきたと考えるのが妥当であろう。

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 橋本及び紅葉八幡宮の由緒及び独自調査による奥州柴田氏の動向を歴史年表にして下表に示す。柴田郡柴田氏は11世紀と12世紀の2度、その地を後にしている、あるいは退避しているのである(この間、およそ100年)。少なくとも12世紀の柴田氏は筑前国に渡った柴田氏とは直接的な関係はないようにも思われる。まずは11世紀に故あって陸奥国柴田郡から移住してきたその理由を把握する必要があるが、前九年の役後三年の役の奥州の政治情勢にあると見ざるを得ない。

 朝廷の前線基地である多賀城の側に柴田郡がある。この戦乱に全く無縁であったとは考えにくい。移住したということは奥州安倍氏の側にあり朝廷側に立たなかったということである。よってこの地を離れざるを得なかった。一族は北へ南へと逃れていったに違いない。ただ、遥か筑前国まで逃れる必要があったのか、この点については全く想像が及ばない。一つの示唆として12世紀の柴田(芝田)氏の動向がある。

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 ここに鎌倉幕府の有力御家人である梶原景時の影が見え隠れする。梶原景時の変(頼朝死去後、その他の鎌倉御家人に討たれた)と符号するようにこちらの柴田氏は幕府に追討されているのである。梶原氏に与したことが理由であろう。梶原景時の子孫はそれでも全国に散らばって生き残った。最も有力な末裔は播磨明石梶原氏と讃岐梶原氏である。元々梶原氏は源平合戦で水軍を操った一族である。義経も梶原氏無しには屋島でも壇ノ浦でも活躍することは出来なかったのである。讃岐梶原氏は淡路の阿万・沼島海賊として生き残り、河野水軍とも連携し瀬戸内海に覇を競った。梶原氏は関東から西遷しているのである。これとは別に承久の乱(1221)に伴い関東御家人の多くが東国から西国に西遷している(西国勢力の没官と関東御家人への恩賞に起因)。

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 これと共に後年の柴田氏も西遷した可能性が無いとは言えない。ただ筑前国神職・柴田氏とは繋がってこない。また、11世紀に最初に筑前国に来住した神職・柴田氏と、その末裔の15世紀の柴田蔵人佐との間の400年間に何があったかも定かではない。同じ橋本村にあったのか、後に橋本村に移住してきたのか。11世紀の柴田氏の100年後に出奔した柴田(芝田)氏が仮に西遷する梶原氏と共にあったとした場合、同じ柴田一族として残りの300年間に割って入って来たと想像することも不可能ではない。梶原氏は後年、黒田氏(後の福岡藩)の水軍勢として仕えているのである。よってこの柴田氏も筑前国に繋がらないことはないが、これだけでは少々無理筋である。

 そもそも11世紀の柴田氏が何故、遠隔地である九州まで移動しなければならなかったのか、肝心のその理由が分からない。これでは結論を出せない。単なる姓氏のルーツ探しであったが回を重ねるごとに混迷の度を加えている。

 もう少し歴史事実の精査を行い何とか迷走を食い止めなければならない。ということで今回も結論を先延ばしにせざるを得なくなった。