忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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"くるすば”で迷走 完結編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(45)

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 奥州の古代史を概観すると下図の通りとなる。安倍氏清原氏藤原氏が朝廷と鎌倉幕府に滅ぼされた。高橋克彦の奥州三部作を読めばその哀感漂う滅びの歴史ドラマが切々と胸に迫って来る。お薦めである。

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 さて、柴田郡柴田氏の遥か筑前国への移住の理由を探らねばならない。あらためて前九年の役の始末を探ってみた。この時点の安倍氏関係者の関係図は下記の通りである。

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 朝廷方の大将は源頼義、嫡男八幡太郎義家も参戦している。安倍氏嫡流”貞任”一統は戦死あるいは処刑されたが次の嫡流格”宗任”一統は投降している。頼義を加勢した出羽国清原氏は投降した宗任一統を保護していたが、頼義はこれを拉致し京都に送っている。清原氏は縁戚である安倍氏の再興を”宗任系統”に期待し手元に保護したかったが、頼義はこれを危険視し手を打ったとの見方をする学者もいる。

 戦勝の褒賞として頼義は伊予守を補任されると直ちに宗任一統を京都から更に伊予に移している。その後、頼義の任が解かれると宗任も解放され、朝廷は宗任一統を太宰府支配下にある筑前国宗像郡の大島に移した。

 柴田氏の由来に戻る。8世紀、陸奥大国造だった道嶋宿禰嶋足が朝廷に対して無姓だった陸奥国の豪族への賜姓を申請した。その中に柴田郡の人があり安倍柴田臣が賜与された。柴田氏の始まりである。安倍氏から派生した豪族ということでもある。安倍氏の宗族は”朝臣”であるが、その支庶流は”臣姓”を賜与され東国、奥州を本拠とした。

 さて1062年、前九年の役で奥州安倍氏は滅亡した。軌を一にするように柴田郡柴田氏が”故あって”陸奥から九州の筑前国に移住しているのである。朝廷の奥州の拠点は多賀城である。九州の太宰府のようなものである。その南方に柴田郡がある。柴田氏は表向き安倍氏側に立たずとも微妙な位置にあったと考えてみた。同じ安倍氏の出である。宗任等と共に落ちていったという可能性は、宗任の一統(含む臣下)もこれに同行しているのであるから結構高いのではないか。これなら柴田氏も伊予、筑前と渡って行く理屈が立つ。現時点での”故あって”の筆者なりの分析である。

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 ところで奥州の宮城県と九州の大分県の間には名字や民間伝承を通じて注視すべき繋がりが見られる。大分県には安倍宗任伝承が多い。面白いことに安倍姓は東京都を除けば宮城県に次いで大分県に多い。特に宇佐市に集住している。大分県の安倍姓は安倍宗任に由来するとも言われる。一方、宮城県には全国で尾形姓が最も多い。

 宮城県気仙沼市に羽田神社があるが、その由緒に豊後大神一族の棟梁緒方惟栄源義経と共に陸奥に下り再興したとある(義経、惟栄が九州に一旦退避すべく共に播磨から出航すると嵐に遭難、義経は逃れ、惟栄は捕まり上野国沼田へ流罪と伝えられている、惟栄のその後の動向は記録に明確ではないから奥州に行ったとしても否定は出来ないのである)。その時に惟栄は緒方姓では不都合なので尾形姓に変えたとある。反対に大分県竹田・大野地方には安倍宗任が現地の有力豪族の娘を娶り緒方惟栄を産んだとの伝承がある。単なる英雄伝説譚と一笑に付すには符号する点が多いのである。陸奥柴田郡から柴田氏が九州に渡って来るルートがあった傍証にもなりそうではないか。

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 ついでに本筋には関係しないが興味深い話がある。柴田郡には新羅郷があった。新羅からの技術集団が住んでいた。多賀城建築・修復等に関わる高度技術が必要とされたのであろう。一方、豊後の安倍宗任伝承が残る旧大分郡白木村の白木は新羅に由来する。ここには宗任が母を祀る為に鬼神社を建立した伝承が残っている。宗任の母親が”新羅の前”と呼ばれたからこの地を白木と呼ぶようになったとある。また遥か昔に新羅の戦乱から逃れてきた人がこの地に住み着いたとの地元の古老の話も残っている。新羅でも繋がっている。

 更に余談となる。宗任が移された大島は宗像大社宮司でもある宗像氏が支配した。大島には中津宮がある。その前に移った宇佐には宇佐神宮がある。宇佐神宮出雲大社宗像大社厳島神社の四社は全て宗像三女神を祀っている。航海の安全を守る女神である。安倍氏は海人族だったとの話もある。海人族の末裔としての繋がりも思わせて面白い。 

 いずれにしても柴田郡柴田氏が筑前早良郡の橋本に集住し、そこに八幡宮を建立した理由には繋がってこない。大分県佐伯市が柴田姓の最多集住地である理由となるとさっぱりである。流石にここは顕学に頼るしかない。

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 兎に角、宗任に随行して来た柴田氏は宗像地方から時間をかけて北部沿岸に氏族を増やしていった。その内の八幡神像を護持していた一統が西進し遂に橋本に故地を想い八幡宮を建立した。これが契機で周辺に勢力を拡大するに至った。筆者には今はそう考えるしか術がない。ただ”安倍氏がkey word”のような気がしてならない。

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 因みに我が豊後佐伯藩領の神官職にも柴田氏がある(寛保元年御領分中寺社記)。この一点では橋本八幡神職の柴田氏と繋がってくるが、それ以外の柴田氏とのリンクは見えて来ない。消化不良であるが完結編としたい。

<追補>

 “くるすば”とは全くかけ離れたところに着地させてしまったが、我が本匠に柴田姓が多い理由は依然として分からない。ただ土持柴田氏のこの地への帰農は一つの事実としても、戦国合戦の負け組になった野津衆柴田氏一統が断続的に冠岳越を通って野津から逃れて来たと考えるのが妥当なような気がする。旧中野村の人々は昔から目立たぬように生きる事を教え込まれて来たとの話も伝わる。果たしてこの地は”野津柴田氏のアジール”だったのではないだろうか。よってかつてはキリシタンもいたはずである。発掘すればその痕跡が出て来るかもしれない。それをやっていないに過ぎない。その意味ではやはり”くるすば”に着地出来たのかもしれない。それが一番腑に落ちる。

 

了