忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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民俗のアジール Y2-02

  あの山の向こうが目指すべきサンクチュアリ、我が一族のアジールである。

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この山を越えてこの川を遡り、

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こここそがその地である。

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 サンクチュアリアジール、という概念は西欧由来だが、一般的に前者は”聖域”、後者は”避難所”と訳される。本来同じ意味合いにも関わらず何だか後者の方に悲壮感が漂う。日本では網野善彦の”無縁、公界、楽”としてのアジール分析が名高い。世間と縁を切った世界、世俗権力の介入が及ばない世界ということである。そこは、まさに自由、平等、平和の世界なのである。アジールとは、「心身に迫る脅威から人間を庇護する平和の場」、とある学者は定義する。

 我が山間の故郷(旧豊後海部郡中野村)もかつてはアジールだったのではなかったか。「この村の人々は昔から目立たぬように静かに暮らせと言い伝えられて来た」という母の言葉が頭から離れない。山間に隠棲地然とした集落が佇み数奇な伝承、行事が残る。悲しいかなそういう伝承を拾い上げる前に過疎化と高齢化がその機会を奪いつつある。何か知らされていない歴史や伝承が未だ埋もれているのではないかと思うのである。

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 名字分析をしているとこの村のアジール感が強い。豊後佐伯地方で人口が最も少ない村にも関わらず名字数がやたら多い。山間の生産性の乏しい土地では限られた一族が共同体を作って細々と生命を繋ぐのが通常で、本来名字は一村落に数個と少ないはずである。この村に村落(大字)は7つ、ところが名字は116個に達する(17個/村落)。旧中野村の54年分(1947~2000年)の中学校卒業名簿から抽出した数字である。佐伯市の名字100位中に47個、それ以外で69個ある。最近に限ればこれが72個に4割ほど急減している。過疎化と人口流出の結果である。

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 数の多さを何かの指数で証明出来ればいいのだがとんと数学に弱い。仮に最近の名字数72個で一個当たりの人口を見ると当村では16人/個となる。大分県佐伯市に当てはめるとそれぞれ74,500個(大分県)、4,607個(佐伯市)と有り得ない名字数になる。当村の名字が異常に多いということになる。

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 いくつかの名字は日本全国、大分県の中でも高い人口シェアを占める事にも驚く。例えば佐伯市上位100位中では柴田、高橋、高野などは実に高いシェアを占める。人口シェア5%以上に限定しても11個ある(当村の佐伯市での人口シェアは僅か1.6%)。

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 それ以外の名字を大分県の人口比率(5%以上)で見てみると更に多く20個になる(当村の人口シェアは0.1%)。品矢、久根田は全国でも希少な名字である。羽柴、玉野井、吹田もこれに引けを取らない。無論、明治期に適当に名字登録した可能性が無きにしもあらずだが、それならこのような希少な名字を選択するはずがない。

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 つまり短期間に多様な人々が外部世界からこの地に流入して来た為と想定するのが妥当であろう。この地には古くは平家落人、近くは切支丹・バテレン隠棲、戦国合戦落人といった伝承が残る。ただ、佐伯地方の海岸地域に古くより戦乱の避難者、落魄者が来着した多くの史実が記録に残るのに比べて、この村にはそういう記録が残っていないだけに証明が難しい。仮にこの仮説が正しいとして、流入してきた時期は中世から戦国末期だと想定される。何故にこの地であったのであろう。世俗権力(佐伯氏、毛利氏)側にこれを許容する背景があったのだろうか。

 避難、隠棲地ということであれば、先住者の少ない懸崖、未開の地という条件は必要であろう。懸崖の地であることは概ね否定しようがない。生産地に適さない地であったということはどうであろう。これを江戸期の生産高(石高)に探ってみた。当村の人口比率(7%)に対して実高比率(4%)は約6割相当、一人当たり、あるいは世帯当たりの生産高を試算すると佐伯藩の村高(浦高を除く)平均の半分にしかならない。佐伯藩各村の中でもっとも低い。上流の因尾村にも及ばない。

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 しかも18世紀初頭に浜後井路が完成(田地が拡大)した後の数字であり、それ以前は石高は更に低かったはずである。生産性が低い土地で先住者も少なかったということになる。移住者が帰農し開拓するに適地である。例外はあるがどの地区も生産性が極めて低い。

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 参考まで江戸期と昭和初期の当村の一人当たり生産額を比較してみる。現在価値に置き換えると江戸期の村全体の年生産高は30百万円、一世帯当たり87千円の収入(石高以外の収入があってもさしたる相違はないだろう)、米価をベースにすると昭和初期には村全体の生産高は108百万円と3.5倍程度になる。

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 各地区に残る史跡、伝承の視点ではどうだろう。上流の因尾村には平安時代に遡る古い史跡(天神社947年創祀)を筆頭に多くの史跡が残るが下流の中野村には江戸期以前の古い史跡が少ない。未開地であったことにならぬか。唯一、平家の平兄弟の落人伝説が残る小川地区に平安末期の”宝塔”が残る。宇津々や波寄地区には佐伯氏の戦国期の雄・佐伯惟治の石塔(墓碑)が残る。三股の白山神社は佐伯氏の最後の当主・惟定が勧請したものである。いずれも近世のものである。因尾村に比べれば全般的に史跡も新しくかつ少ない。何らかの理由で人々が限られた時期に流入した傍証といえないだろうか。

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 伝承をみる。小川地区には祖先は平家落人であることが今も伝えられている。宇津々地区においては山向こうの豊後の最大の切支丹地であった野津地方からバテレンが隠棲したとの伝承や佐伯氏家臣が帰農した伝承が残る。三股地区にも平家落人と思しき名字や戦国末の合戦の敗残武士が帰農した伝承がある。異例なものとしては小半地区に仙台藩の農民姉妹による藩士仇討由来の”団七踊り”が伝わっている。何故、この地になのだろう。

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 権力側の意向としては一つには前政権(佐伯氏)に対する後継政権(毛利氏)の配慮(帰農家臣団の自治)が想定出来ぬこともない。

 アジールとはギリシャ語に由来し”不可侵”を意味する。日本的には中世の自力救済による報復社会から聖なる世界への逃避、縁切りである(縁切寺自治都市等への走入)。古くより山や川は誰のものでも無い無主の領域と位置付けられてきたが、山野河海を遍歴する支配者を持たない非農民(供御人、商人、芸能者等)の領域もそうである。当村の場合はいずれとも違う権力からの脱落者の庇護世界の匂いが濃い。探れば埋もれた史実が未だありそうだが、過疎化が激しく歴史文化や民俗の自然消滅がとどまるのを知らない。

 日本各地に、その歴史文化、民俗の庇護の”現代のアジール”が求められているということであろう。

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