忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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山笑う

 新緑の季節が今盛りである。花より何より四季を通じて自然と言えばこの時期の新緑に尽きる。みずみずしく清々しく明るく眩しく優しい。この歳になっても、この新緑の時期が訪うと、頑張って生きようという気になる。

 ただ、都会には深い山が無い。目に映る新緑も人工的である。何より人々の生活感に乏しい。山里に生まれ育った身にしてみればやや不満である。にしても、この時期の新緑に優る自然からの贈り物は筆者には断じて無いのである。

   ざぶざぶと 白壁洗ふ 若葉かな (一茶)

 我が故郷、佐伯地方の自然をこよなく愛した国木田独歩なら言うかもしれない。自然に対してそういう向き合い方は良くない。自然とは人間に生きる意味を教えてくれる絶対的な存在である。そう思える精神を養え、と。あの絵画のような佐伯地方の四季の自然美に包まれて生きる人々は幸いである、とも。

 独歩が信奉した、英国の湖水地方の自然を愛したワーズワースの詩にも確かにある。「書を捨てて光溢れる世界に出て来い、自然を君の師となせ。」、頭が痛い。

 独歩はワーズワースの詩集を携えて佐伯に来た。佐伯でワーズワースの世界を実体験した。ワーズワースも独歩も自然と精神の交わりの崇高性を歌った。ワーズワース湖水地方、独歩の佐伯地方はそれぞれの思索の熟成地となったのである。

 何故、そこまで自然を尊崇するのか。時代背景やその中での己の生き方への懐疑がある。”囲い込み”や、近代化、都市化の進展と共に人々は自然を振り返る余裕もなく自然を見捨てていく。それに呼応する様に人々の精神は病んでいく。ワーズワースも独歩もまさに自らが人生でそういう心倦む経験をした。だから人間が自然から離れていくことを嘆き、そういう生き方をよしとしない。

 「そして私は祈るのだ、自然を愛した心を自然が裏切ることはないと知ればこそ。一生を通じて喜びから喜びへと、私たちを導くことこそ自然の特権、なぜなら自然は私たちの内なる精神を教え、静けさと美しさとを刻みつけ、高邁なる思いを養い、そうすれば悪意のある言葉も、性急な判断も、利己的な人の冷笑も、心のこもらぬ挨拶も、日々の心塞ぐ人との交わりも、私たちを制圧することなく、私たちの目に映るすべてが祝福に満ちているという快活な信念をかき乱すこともあるまい。」(ティンターン修道院上流数マイルの地で:ワーズワース詩集、岩波文庫)

 ワーズワースが5年ぶりに訪れ詩作したワイ川(Wye River)は独歩にとっての佐伯の番匠川なのである。ワーズワースは幸いである。湖水地方に住み自然を師として80年の長き人生を全うした。独歩は違う。終生、佐伯地方を追慕して止まない37年の短い人生だった。

 ここは少し独歩の佐伯に浸ってみたい。

 「豊後の地、山険にして渓流多し。所謂山水の勝に富む。茲は別天地なり。国道の通ずるあるなく、又航舟の要路に当たらず。山多く已に水田乏しく、地痩せて物産少なし。」(豊後の国佐伯)

 「自分の眼底には彼の地(佐伯)の山岳、河流、渓谷、緑野、森林悉く鮮明に残っていて、我が故郷の風物よりも幾倍の色彩を放っている。」(小春)

 「自分が真にワーズワースを読んだのは佐伯に居る時で、自分が最も深く自然に動かされたのは、佐伯に於いてワーズワースを読んだ時である。」(小春)

 「僕は此の詩集(ワーズワース詩集)を懐にし佐伯の山野を歩き散らかしたが、僕は今もその時の事を思い出すと懐かしくて涙がこぼれそうな気がするよ。」(小春)

 「当時余は最も熱心なるワーズワース信者で、しかしてワーズワース信者に取りて佐伯町は実に満目悉くワーズワース詩編其の物の感があったのである。山に富み、渓流に富み、渓谷の奥に小村落あり、村落老いて物語多く、実にワーズワース信者をしてマイケル(ある老人の人生を歌った詩)の二、三は此処彼処に転がって居そうに思わしめた位である。」(不可思議なる大自然

 独歩の言う自然とは、「沖の小島に雲雀があがる、雲雀が住むなら畑がある、畑があるなら人が住む、人が住むなら恋がある」(独歩吟)、という表現に的確である。筆者の愛読書、渡辺京二「逝きし世の面影」(平凡社)に描かれた懐かしい日本人もそこにいたに違いない。そういう独歩の自然が日本中で急速に失われつつある。人間精神の混迷の予兆でもある。残念ながら独歩の逍遥した佐伯地方はその先頭集団にある。里山が枯れ自然に帰しつつある。いずれ独歩の書の中にしかその世界を追想出来なくなる事を想うと、まさに涙がこぼれそうな気がするのである。

 さて佐伯の新緑である。それほどまでに独歩が入れ込んだ佐伯の自然である。独歩もこれを礼賛して当然である。独歩は10月から翌7月までの10ヶ月しか佐伯に滞在していない。佐伯の新緑の機会は一度切りである。新緑の4月から5月に城山は言うに及ばす二度目の元越山に登っている。二度目の銚子八景を訪れている。無い。どこにも無い。その新緑の感動の記載がどこにも無い。元越山からの眺望の感動の言葉は11月に登った時のものである。これで元越山は文学の歴史の一角に名を連ねた。

 自分なりに理解した。自然の聖性、神秘性を感得するには新緑は独歩にとっては明る過ぎるのである。思索し感性を研ぐにはその光は幸せ過ぎるのである。そう納得するしかない。

 この時期の新緑は本当に頑張って生きようという気にさせてくれる。だが新緑は直ぐに青葉に変化する。青葉と共にその思いも雲散霧消する。独歩やワーズワースへの道は尚遠い。

   ふるさとや どちらを見ても 山笑う (子規)


了