忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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日本百名山、日本百低山

 国境の長い峠道を越えると山国であった。豊後佐伯地方はそういうところである。

 阿蘇山の大噴火による溶岩流が形成した大野平原から眺めるとその南側には見事なまでの山陵の壁が立ち塞がっている。その向こう側は山また山である。そこにある。

 厚さ100kmはあろうかという地球表層のプレートの活動境界に付加体と称される地盤がそこに形成された事による。一般的にプレート境界では、広がる、狭まる、ずれる、という運動が起こる。これが地殻変動や火山活動を引き起こし大山脈や弧状列島を造る。造山運動である。プレートが狭まるところはその沈む込むプレート境界面の圧力で堆積物が剥ぎ取られ陸側に付加されていく。付加体である。おかげで地表は皺くちゃになってしまう。佐伯地方はそういう地盤の上にある。

 温泉県大分にあって幸か不幸かこの地には火山がない。マグマも噴出を諦めた訳である。代わりに豊後の北部でこれ見よがしにマグマが続々と噴出、多くの火山が出来た。くじゅう連山、鶴見岳由布岳等を造った。火山活動がなければこの地は海底に沈下するはずであった。この北側の火山地帯と南側の付加体の間に西側にある阿蘇の再三の大爆発が大量の溶岩流を送り込み大野平原を形成した。

 さて深田久弥による日本百名山がある。日本百名山は標高1500m以上である事が選定条件である。九州には6山、大分県には2山ある。火山帯にある九重山と付加体上にある祖母山である。もっとも百名山深田久弥が勝手に選んだ。

 付加体へのプレート圧力がさして高くなかったのであろう、日本アルプスのような高山が佐伯地方には生まれなかった。最高峰は宮崎県境近くの傾山の1,605mである。祖母山は1,756mでその更に西側にある。筆者の勝手な解釈であるが隆起により出来た祖母山や傾山と違い火山性の山は山肌が良くない。隆起した山には噴煙(硫黄)の影響を受けない為、禿山なんてものはない。つまり佐伯地方の山肌は深く柔らかな森林に覆われていて見事なまでに綺麗なのである。その為、植生も豊で鳥や動物も暮らしやすい。人間にとってどうかは何とも言い難い。

 一方、日本百低山というものもある。最初はイラストレーターの小林泰彦が選んだ。登山家ではない。自分の行ける範囲で選んだ。生活圏にあり誰でも歩ける山(里山)でそれなりに知名度がありストーリー性を持つ1500m以下の山という条件で選んだ。九州に4山、大分県では鶴見岳英彦山の2山ある。もっとも1000m級の山を低山と呼ぶには違和感もあるが。

 その後、日本山岳ガイド協会が都道府県に原則二つずつ選ぶ条件で新しい日本百低山を選んだ。九州に18山、大分県には玖珠町の万年山と我が佐伯地方の元越山の2山が選ばれた。元越山は国木田独歩があそこまで讃美した訳であるから選ばぬ訳にはいかなかったであろう。佐伯地方には選ばれるに値する多くのかくれた名山がまだある。

 また、“山と渓谷社”刊による九州百名山というものもある。大分県に23山、佐伯地方では元越山、傾山、夏木山の3山が選ばれた。

 因みに我が故郷(旧中野村)の米花山は見事な山である。豊後国志には「群山に連接し、雲表に秀出す、茂林脩竹、彩翠愛す可し」とある。佐伯志には、「郡中第一の高山なるが古き地図には米華山とせず、皆な白米山と記せり、米華と称へたらん方、稍佳なるがため、更めたるにや、中島子玉先生が号の米華は無論此の山名に取られしものなり」と、かの中島子玉(佐伯藩の儒学者頼山陽が不明を詫びたほどの人物)にも賞賛された山である。どうしてこの山がどこにも選ばれていないのか。米花山に限らずそういう見事な山々が佐伯地方の各地に未だにかくれたままである。

 更に日本山岳会東九州支部が選んだ大分百山というものが続く。名山とは言っていない。佐伯地方では14山が選ばれた。やっと親近感のある山の名が出てくる。ただ椿山が載っていてここでも米花山の名がないのはいささか不満である。低山に限っては佐伯地方には選ばれてもおかしくない山々が未だあるはずである。付加体であるが故にその地表は皺だらけである。多様な山々が佇んでいるということである。あの大野平原の南側に屹立する山稜の壁が登山愛好家の来訪を困難にしてきたからに違いない。その北側の火山群に皆が取り込まれてしまう。

 江戸時代に南画家の谷文晁が日本名山図絵を描いている。90山に達する。九州では5山、豊後には英彦山筑前でもある)が選ばれている。その選定基準を分析した面白い論文がある(「日本名山図絵」に見る谷文晁の名山観、造園雑誌55(5):49-54,1992)。詳細は省略するとして従来の“名のある山”(61山:和漢三才図会、東遊記、山水奇観)基準から”見よい山(89山)”(日本名山図絵)に視点を変えて従来の名山から33山を不採用にしている。残念ながら日本百名山に選ばれ、その”名のある山”でもあった九重山も祖母山も文晁の名山図絵では不採用である。文晁からは”見よい山”ではなかったということになる。文晁は登山するのではなく遠望することを通じて名山を選んだ。画家ならではの視点である。もっとも文晁が実際に訪問し見たかどうかは怪しいものである。文晁の視点に立つならば我が米花山が選ばれてしかるべきであろう。名もあり見よい山でもある。やはりあの山稜の壁が文晁の来訪をも拒んだのである。

 ただ、我が故郷の山々に今もまします山の神や水の神が、果たしてそのかくれた名山の発見される日を待ち望んでいるかどうかは分からない。そこはよくよくの考えどころである。