忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

故郷忘じ難く

 老母が独居する実家に二ヶ月ほど生活した。何しろ僻地である。この間、インターネット接続が断たれた。Facebookを通じて何とか社会との接点は確保出来たが、それも不要なほどに故郷の日々は濃密で人と食と風土は機微に富んだ。

 後輩曰く、”僻地は宝の山と海”である。これに優る表現方法を今は知らない。豊後佐伯地方は都会からはとても遠い土地である。横浜から神戸まで車で走り、そこからフェリーで九州は豊後に渡る。飛行機で行けば済む話ではない。母の住む山里に公共バスは日に2本だけ、車をもっていかないと生活が出来ないのである。

 気付けば滞在中一日平均40kmを走っていた。豊後佐伯地方の国県農林道の全てを踏破したようなものである。流石に登山だけは自前の脚に頼った。この地方の海と山と渓谷のほぼ全てを知悉した気がする。相変わらずの素晴らしい自然景観があった。

 一方で多くの事を考えさせられもした。何しろ書を捨てて実地検分の毎日だったのである。行く先々で踏みしめる土地が否応なく語りかけてきた。

 大自然に抱かれた里山海浜の集落の多くが廃れ逝く光景もそこにあった。四季折々の人々の行事のいつも中心にあった神社仏閣が共に廃れ逝く。村落の歴史を記録した文物も散逸し、あるいは土に還っていく。

 歴史民俗の記録は文物以外にもそこに暮らす人々の記憶の中にも残っている。高齢化と過疎化がその記憶の伝承をも断ちつつある。貴重な最後のメモリーも急速に消滅しつつある。今や集落の古老さえもがその歴史民俗を語れなくなっていた。

しし垣と段々畑の廃墟

 歴史は勝者の記録である。敗者の記録は少なくとも正しくは残らない。ただ民俗史は生活者の記録である。勝ちも負けも無い。人の生活の有り様を伝え歴史の基層を成すソフトである。残さなくてはならない。歴史や民俗史が消滅してしまうと自らのルーツが断たれ存在認識が希釈されてしまう。そこに暮らす人々のみならず日本の歴史においても由々しきことになる。それぞれの地方の歴史を集合したものがそもそも日本の歴史なのであるから。

 歴史のスポットライトが当たって来た地域は未だましである。民俗史も共に拾い上げられ伝承されていく。スポットライトの影の部分となる多くの地方はそうはいかない。光に晒される事なく、いつしかその歴史や民俗は共に闇に消えて行く。ただ、その消長はそこに暮らす人々の確固とした意思の度合いによる。そこに留意しておくべきである。

水の子灯台旧職員退息所

 だから地方の歴史民俗史の担い手の双肩に重い役割が負わされる。その多くは歴史愛好家のボランティアであると言っていい。割に合わない。にもかかわらずその力量がその地域の人文的価値を決定づける。だからこそ行政は地域の最優先事項としてその活動を支援すべきである。特に専門家の育成に尽きる。地元の歴史民俗を拾い上げ保護し評価し継承して行く体制が何と言っても必要である。そこに暮らす人々の意識の奥底までそれを繋げていくことが行政の使命といってもいい。

 日々を暮らす土地を愛しく思う心の涵養に優る地域再生の方策は無い。それさえ有れば人々は一つになり目指すべき地域の未来に向けて積極的にその活動に参加するに違いない。地域再生とは土地に対する人々の心の在り方を気付かせる事であり、それ無くしては覚束ない。街や里山に息づく歴史文化や民俗を学び、あるいは発掘し、その継承を目指す事で、地域の豊かな未来が見えてくるのである。自らの歴史民俗を愛する事が目指すべき地域再生の肝である。

旧三の丸御殿(部分移築)と住𠮷神社に奉納された御座船絵馬

 だからこそ、地域からその歴史を発信していくことが重要である。民俗史も歴史である。ここに至るまでの暮らしを繋いできた生活のノウハウそのものである。それぞれの地方で様々であるがそれを発信しているか否かが地方の競争力の差となり自力となる。

 さて歴史文化の視点からは豊後は昔から九州ではない。瀬戸内の歴史文化圏に属する。瀬戸内海と豊後水道が要路として目の前に存在し中央からの政治文化の流入を容易にしてきたのである。

佐賀関と豊後水道

 豊後佐伯地方は更に特異な歴史文化を有する。地勢の影響がすこぶる大きい。落魄者、漂流者の隠棲地として最適な地勢であった。つまり敗者側から見た歴史が埋もれている場所といえるのである。

 浦々、山里にその遺跡や伝承が残っている。時の権力に負けた勢力がその時代毎に落ちてきているのである。彼らは日本の歴史の表舞台に活躍の場を得ることはなかったにせよ、日本の歴史の表裏の関係においてその歴史を地方から支えてきた事実を見落としてはならない。幾多の時を経て地方は優秀な人材を中央に供給し続け、その末裔達が歴史の担い手に返り咲いたことを否定する人はいまい。

粟嶋神社と長宗我部神社

 行く先々で踏みしめた土地がそう語りかけてくれた。

 

 了