忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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リーフデ号を奪還せよ Y2-09

 既成事実とか実効支配とかになってしまうとその原状回復は殆ど不可能に近い。

 1600年、関ヶ原合戦の半年後に豊後にオランダ船リーフデ号が漂着した。乗船していたウィリアム・アダムズ(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(耶揚子)は徳川家康の外交顧問としてその後の江戸幕府外交政策に影響を与えた。スペインの世界分割(宣教と植民地化)の為の日本への足掛かりの芽を摘み、家康をして自由貿易を標榜するオランダ、英国を選択せしめた。家康の絶大な信用を得、三浦按針は三浦半島に250石の知行地も得た。ヤンヨーステンは現在の東京駅近傍に屋敷を与えられ八重洲の名を残した。誰しもが日本史に学んだことである。

 問題はそこではない。リーフデ号の漂着地にある。その地は豊後臼杵ではなく豊後佐伯であるという事実であり、歴史誤認があるにも関わらず歴史学界が一向にこれを顧みない点にある。取るに足らぬ些細な事という勿れ、地元にとっては極めて憂慮すべき話なのである。歴史の歪曲とまでいうつもりはないが歴史事実の修整はあってしかるべきではなかろうか。

 臼杵側では臼杵湾に浮かぶ黒島をその上陸地としてとっくの昔に史跡化してしまった。日本とオランダ、英国の外交が始まった基礎を築いた地、日本で最初に英語が話された地、言いたい放題である。ただ臼杵湾への漂着は根拠が乏しい。学者の誤情報(投錨地名・XATIVAIは佐志生のことであろう)を修正することなく既成事実化してしまったのである。漂着地の誤認なんて大したことではなかろうと言うかもしれないが、佐伯側としてはなんとも居心地が悪い。

 ほぼ同じ時期(1620年)にメイフラワー号がアメリ東海岸プリマス命名)に漂着している。その地には初めての一歩を踏んだと言われる小さな岩が大袈裟に囲いで保護されている。アメリカ人の聖地的史跡になっているが、ならば、それも大した問題ではなくなるではないか。

 佐伯側には根拠が多々ある。その証明の為に先輩諸氏が並々ならぬ尽力を重ねて来た。これを無に帰させてはならない。その事実証明に対して臼杵側は黙して語らない。反論する根拠が無いからである。既成事実を覆すのは容易な事ではない。最早、臼杵側として漂着地の名誉を自主的に返上する事も無理であろう。佐伯側でも先人達によるその事実証明の記憶が薄れつつある。

 何故に漂着地にそこまでこだわらねばならないか。古来、この地が海の歴史に彩られて来た地だからである。その彩りを更に鮮やかなものに出来るからである。何より、遠祖達が辿った全く同じ海の道(黒潮)を北に辿り、日本でも初めてとなるオランダ船が到達した事実と、それに呼応した先祖達の民俗遺産(先祖の行動・地名記録)を残す事が、この地の歴史文化を考える観点からとても大事な事なのである。そういう自覚無くして正しい歴史認識は出来ない。

 臼杵側が行ったような解釈をすれば、徳川幕府外交政策に影響を及ぼす端緒を作った地なのである。歴史的な出来事としてもメイフラワー号の漂着地に劣るものではないではないか。

 それにリーフデ号は偶々豊後に漂着したのではない。最初から豊後を目指して航行して来たという事事を知っておくべきである(毛織物需要に目をつけた販売目的)。多くの船員が死亡し航行能力に著しい問題を抱えていたものの、なんとか佐伯湾までは到達し力尽きたのである。先人の研究努力により漂着ではなく自ら操船し到達した事は証明されている。豊後以外に到達する可能性はなかったということである。大事な視点である。

 以下に先人達の残したデータを再掲し、その熱い思いを伝え、歴史事実の是正を問うものである。航海日誌、書簡、欧州側資料(亜細亜誌)、二度にわたる漂着実験、それらを通じてリーフデ号の佐伯湾漂着が紛れもない事実であることが証明されたのである。

 先人達は多くの根拠を示した。到着地名(XATIVAI)の発音に近い地名が佐伯湾にある(指夫:さしぶ)。外国船の漂着を示唆する地名(唐のつく地名)が佐伯湾に数多く残っている。漂着の伝承(黒船漂着)もある。溺死した航海者のものらしき墓が残っている。佐伯に駐在していたパードレの報告記録がある(後年、毛利高政は佐伯に教会・修道院を立てたように耶蘇会が布教中)。何より漂着実験が決定的である。

 リーフデ号が日本の陸地を発見した地点(延岡市土々呂東方、豊後水道入り口付近/北緯32度30分)からの二回にわたる無動力船による航速調査を行い、リーフデ号の航海実績との一致を見たのである。このデータにより臼杵湾まで漂流するには時間的に困難な事、佐伯湾の大入島近傍に漂着するのが妥当な事を証明したのである。

 

 更に客観的な事実が日本の他の土地にある。航海安全の為にリーフデ号の船尾に取り付けられていたエラスムス像に纏わる伝承である。この像は栃木県佐野市の龍江院に伝わり(現在、国立博物館に保管委託)オランダ最古の木彫と判明、重文となっている。これを納めたのはリーフデ号の解体に立ち会った御持筒頭・牧野成里で龍江院は菩提寺である。佐野市では「リーフデ号は佐伯湾に漂着した」と伝わっている。足利市の考古学者により検証済みでもある。だから臼杵側が黒島にエラスムス像の模刻建立の了解を得る為に龍江院を訪問した時にも、臼杵漂着説を否定されたのである(以上、佐伯史談会資料による)。

 さて、地元佐伯市としても佐伯湾に以上に鑑みて正しい歴史を伝える史跡を設けるべきであろう。何も大層な施設を作る必要はない。現在も残る「唐(外国)のつく地名」と「埋設者不明の墓」とに由緒を示す標(しるべ)を置くだけでもいい。最も大切な事はそれを地元が伝え続けていく事である。それを忘れない為にも標程度はあってしかるべきであろう。海からの豊かな遺産を受け、その歴史に育まれて来た末裔としての大切な行動ではなかろうかと思うのである。

 歴史学界がこれを是正する風でもない。我々が大した問題にしないからである。大した問題にしようではないか。

 

了