忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

もう一つの西南戦争 Y2-12

 日豊(日向・豊後)の境界線にある陸地(かちじ)峠から望む可愛岳(えのはだけ:728m)の夕景である。その麓に官軍との最後の戦い、「和田越の決戦」に敗れた西郷隆盛が逃れ宿営した長井の地がある。ここで隆盛は全軍の解散布告を出す。豊後での西南戦争終結した日でもある(1877年8月16日)。翌、官軍に包囲された隆盛はこの可愛岳突囲により道なき日向の山岳を伝い鹿児島に落ちていく。

 その地に向かってこの峡谷に矢ケ内川が流れていく。是非、訪れてみたい渓流でもある。佐伯地方にも残る鮎漁の伝統漁法である「ちょんがけ」が伝わり同じ伝統文化を共有してきた隣人の地である。また一方で陸地峠の激戦に官軍、薩軍の兵たちが血を流した川でもある。陸地峠は西南戦争で有名になったが元々は日豊の人々の流通を担った峠道にある。今はもう誰も通うことは無い。戦跡碑が侘しく立つのみである。

 西南戦争は日本最後の内戦である。1876年の政府による秩禄処分が引き金になった。不平士族の不満が頂点に達したところにあるのがこの戦争である。田原坂の戦いが世に有名であるが、この戦いに敗れた薩軍は官軍の攻勢に後退を余儀なくされていく。その後、薩軍は本営を人吉から延岡に移し大分県に侵攻してくる(5月12日)。官軍の後方を攪乱することが目的ともいわれる。野村忍助率いる奇兵隊3千人が豊後佐伯地方の重岡に入る。奇しくもその300年前に九州全土の支配完遂を目論んだ島津四兄弟の一人、家久が大友氏を討つために侵攻してきた地でもある。豊後南部一帯(竹田~鶴崎臼杵~佐伯)に戦線が拡大し3カ月に及ぶ戦端が開かれた。

 古来、“薩摩というもの”が九州の何処の地にも人々の記憶に良くも悪くも色濃く残っている。佐伯地方の歴史の一端を担ったのも薩摩と言えなくもない。

 ただ、薩軍の豊後(大分県)での戦いはそれまでと様相を異にする。薩軍は軍資金、武器弾薬、食料が不足状態で侵攻してきた。軍需は現地調達によらざるを得ない。行く先々で、略奪、供出、強制使役が頻発することになる。豊後では士族の戦いが多くの民衆を直接巻き込む戦いに変化しているのである。大分県(佐伯地方)の西南戦争はそういう側面を持つことに留意しておくべきである。

 佐伯地方での戦争は3ケ月間と長い戦いである。薩軍は豊後侵攻後、竹田、臼杵と瞬く間に占領していく。竹田を回復した官軍は三国峠(旧岡藩、臼杵藩、佐伯藩の国境にある)の奇襲勝利を契機に薩軍を日向まで後退させる。延岡で体制を立て直した薩軍は日豊の境界線上の山岳地帯、海岸地帯で最後の戦いを挑んでくる。一方、臼杵、佐伯の両市中からの薩軍の後退を決定づけたのは海軍による海上からの艦砲射撃であった。8月16日、延岡長井での西郷隆盛の全軍解散布告をもって豊後での戦いも終わる。

 

 この戦争で竹田では1500戸、臼杵では330余戸が焼失した。竹田は薩軍の戦略拠点として臼杵は四国への渡海拠点と目された。薩軍は略奪、金銭・物資の供出、従軍徴発、可能な限りの住民へ圧迫を加えた。如何に軍需の不足下での戦いであったかの証左である。薩軍は終始弾薬不足に悩まされた。行く先々で供出させたり製造(木浦鉱山からの鉛の調達)させたりと、官軍の豊富な物量に対し不利を強いられ続ける。弾薬不足に鑑みた西郷隆盛の薩州三発令が象徴的である。「三発撃った後は、抜刀で切り込むべし。」

 日向に押し戻された薩軍は日豊境界線の山岳地帯で最後の反攻に出る。薩軍による周辺住民への鹿砦構築、荷役等の使役も激しさを増していく。官軍も同様に住民を半強制的に使役する。ただ、こちらは給金を出した。数千人に及ぶ兵の為の宿舎建設、食料補給、防御柵構築(鹿砦=台場)と宇目を始めとして佐伯地方は官軍特需でも潤った。本業の米作を放棄してでもその需要に応じたと伝わるほどに予期せぬ現金収入があった。民衆は軍需景気に淡い夢も見させられたのである。実直な人々の住む地での罪な戦争であった。

  山岳戦は双方が膨大な台場を築くことになった。多くの住民がその建設に使役され尾根までの材料の運送も大変な労力を要した。その跡が今は歴史の中に埋もれいっている。

 日豊境界線は稜線が延々と連なる山岳地帯である。戦いに際しては自然の堅固な防衛壁となる。ここを突破するには壮絶な戦いにならざるを得ない。遂に”矢尽き刀折れた”薩軍はこの山稜の幾多の峠から撤退していく。この山稜(峠)は、その300年前に島津家久が豊後侵攻から撤退し、350年前に佐伯惟治が大友勢に負われて落ちていく道そのものでもある。

 最初から兵力面での薩軍の不利は明らかで官軍10万人に対し薩軍4万人とその差は歴然である。全国の不平士族の参加への期待も大きかった。熊本隊、中津隊等参集した士族数は17千人に達している。その質においては拮抗していたのかもしれない。一方、官軍による住民の使役費用(給金)が如何に大きかったかも分る。戦争の経費は莫大で国家予算の7割に相当する。後年、国民はそのつけを払わされることになるのである。

 佐伯地方では薩軍による民間人の斬殺、略奪が発生してはいるものの甚大なものではない。ただ3カ月間に及び佐伯地方のほぼ全域にわたって戦いが展開された。この間に多くの人々が両軍に駆り出され翻弄されたことが最大の被害であったろう。内陸地方では5月から8月といえば農繁期に当たる。海岸地方では官軍により船舶の航行が禁止され出漁が出来ない。加え外部に依存する食料調達が遮断され困苦を極めた。一方で官軍が落とす膨大な現金はそれまで篤実に生活してきた住民の労働観を歪めた。戦争が去って日常が戻ってくると人々は茫然自失するのである。

 佐伯地方の山や谷や海岸には西南戦争の痕跡が多く残されている。そこに駆り出された人々の汗もまた染み込んでいる。これを歴史の中に埋もれさせてはならない。

 美しい自然を愛でるだけでは人と自然が共生する意義と価値を理解することは出来ない。自然もまた人の歴史の一方の加担者でもある。日豊の境界を形成する長い稜線はこの地方の歴史の中にそれを証明している。