忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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苗(名)字考 Y2-19

・1870年:平民苗字許可令

 平民も自由に苗字を公称可能

1871年:戸籍法制定

・1875年:平民苗字必称令

 国民は全て苗字を公称義務

 江戸時代においても庶民は苗字を持っていた事が証明されている。貴族や武士のように領地(「名字」の由来)は持っていなくとも庶民は苗字を持っていた。武士の前で苗字を使えなかっただけである。つまり明治の戸籍法制定に伴い新たに苗字を作り出した訳ではない事を理解しておきたい。

 江戸時代でも私文書(寄進帳、講名簿、家系図、一族文書等)には苗字を残している事例が各地に発見されている。また、集団内では実際に苗字を名乗り合う事もあったらしい。「賜姓(天皇から賜った姓)」である「源平藤橘」の如き由緒はないにしても、我々の苗字はそれなりの由緒を持っているのである。

 「氏名」、「姓名」、「名字」、「苗字」、それぞれ混同しがちである。歴史的には、「氏(うじ)」は所属する一族、「姓(かばね)」は国家が決める地位、「名(みよう)」は所有地、「苗」は血族の祖を意味する。名字は平安時代、苗字は江戸時代から使われるようになった。

 古代には多くの人々は氏族に属する「氏人(うじびと)」であり、あるいはこれを支える「部民(奴婢)」であり、その所属を明確にする必要から今で言う氏名を持っていた。それが江戸時代まで継承されていたのである。勿論、忘れられてしまったケースもある。

 「乙巳の変」で滅ぼされた「蘇我入鹿」は大和地方の蘇我村を拠点にした氏族の「氏上(族長)」で、地位を示す「臣(おみ)」を加えて氏名を「蘇我臣氏」と称した。この氏族名は地名由来である。他の例として職能由来もある(弓削氏、犬養氏、膳氏、等)。

 天皇家が権力基盤を強化する手段として氏族に対して姓を与える(賜姓)。「中臣連氏」の氏人である「鎌足」は乙巳の変の恩賞として「藤原」を賜姓され、中臣氏から独立して藤原氏の祖となった。また、天皇家の人々が「臣籍降下皇籍離脱)」する場合も賜姓される。「源」や「平」がそれである。この姓は部門の権威、名門になって行く。戦国三雄もこの姓にこだわった。

 

 これに先立つ奈良時代、荘園の拡大により地元の豪族達は権力へ所領の寄進をするが、同時にその土地は引き続き自分の領地である事を宣言しておかないと安心できない(下表に熊谷直実、佐伯氏を例示)。「名字(所領の地名を自ら名乗る)」の成立である。やがてそれは戦国期に「大名」へと発展していく。

 さて佐伯地方の名字について検証して見る。佐伯という地名は元は佐伯荘に由来する。

 戦国末の佐伯氏退去から毛利氏入封への名字の変遷は下表の通りと推測出来る。佐伯地方に今ある多くの苗字は少なくとも佐伯氏の中世以来のものである。因みに地方には中央のような「姓(かばね)」をもつ氏族は稀である。

 佐伯氏は豊後大神氏(氏族)に属したが佐伯荘を支配するようになり佐伯氏(名字)を名乗る。大神氏が大野川や豊後水道の水運を抑えたことがこの地までその氏族支配を及ぼした。因みに「佐伯」は天皇の品部(職能集団)の一つである佐伯部に由来する。この地方に地名として残る「山部」や「海部(海人部)」も同様である。

 佐伯氏配下にある幾つかの苗字は上述の水運を通じて外から到来したと言うことも出来る。現在の大分市の大野川下流域や対岸の四国からの到来は証明可能である(吉岡、大鶴、成松、利光、神崎、若林、御手洗、河野、等)。鎌倉御家人の西遷もこの地に関東の名字をもたらしている(三浦、染矢、工藤)。無論、佐伯地方独自に生まれた苗字もある。

 現在の佐伯地方の主要名字と近接地域のそれと比較してみたのが下図(下表)である。近接地域の黒太字の名字は佐伯市の上位にもみられ到来名字と見ることが可能である。

 河野(川野)、矢野、渡辺、山本、高橋などは明らかに四国から、甲斐や吉田は延岡地方からの名字であろう。ただ朱字の名字だけは近接地域上位30位にも見られない。佐伯市に固有の名字と言ってもよいのではないか。三浦、染矢、工藤などは西遷御家人によるものである。下図に整理する。

 つまり庶民の多くが明治期に初めて苗字を持ったというのは誤解であり、苗字もまた地名同様に佐伯地方に古くから伝わって来た歴史遺産なのである。