忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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フィトンチッドの森

 豊後佐伯地方の山々の多くは決して高山ではないが、肌が綺麗で絨毯のように柔らかく深々とした森林に覆われている。

 森に入ると心身が癒される効果がある。かつて森林浴ブームが起こり、そこでヨガや瞑想を行えば更に効果が増加すると言われた。このことは科学的にも検証されている。木々が放つその馥郁たる芳香に要因がある。

 植物は脅威(食害)に晒された時に人間や動物のように、戦い、あるいは逃げたり、あるいは隠れる事が出来ない。その為に生み出した防衛手段が、攻撃手段という事も可能だが、その葉や枝や幹からの生合成された化学物質の発散である。傷付いた体を修復する為でもある。抗菌力、殺菌力を持つ。これをフィトンチッドという。昆虫や動物による食害から逃れる為に、フィトン(植物、ギリシャ語)がチッド(殺す、ラテン語)するからそういう。

 胡桃の木の下には植物は育たない。松や杉の下では堆肥は出来ない。腐敗菌が減菌するからである。鳥は巣作りの最後に杉の葉などを巣に敷き詰める。卵や孵化したばかりの雛鳥に抗菌環境を提供する為である。青い山脈と呼ぶ。遠くの山並みが青く見えるのもフィトンチッドのせいである。

 昆虫や動物の植食に際しては、植物の体内に蓄えている忌避物質、摂食阻害物質、殺虫物質がそれぞれの味覚や嗅覚に作用する。勿論、昆虫や動物も黙っていない。植物のこれらの防衛網をものともしない体質に自らの消化器官を変革するものもいる。多くの昆虫は蓼(たで)を忌避するが、これを好んで摂食する奴もいる。“蓼食う虫も好き好き”、という成句が生まれた。ユーカリしか食べないコアラもその類である。ユーカリは抗菌性が強く不消化で一般的に動物は食べない。コアラを抱くと獣臭は一切しないらしい。これもその効能だろう。

 人間達も生活の中に植物の効能を取り入れて来た。家屋にヒバを使うと全く虫が寄り付かない。寿司屋には抗菌剤が溢れている。ヒノキ、笹、ワサビ、ガリなどがそれである。除虫菊は防虫効果テキメンである。ただタバコのニコチンは昆虫どころか人間を蝕む。

 フィトンチッドを浴びるとセラピー効果のみならず、病気の治癒効果もあると言われる。森林の中に長期間住んでいるとこの馥郁たる芳香を感じないらしい。その代わり街に出るとある種人工的フィトンチッドとでも言える匂いを感じ体調を崩す事がままあるそうである。それでも森に帰ると回復する。逆に街の人々が森に入ると芳香を感じ心身が癒される。街に帰ると森の人々が感じた人工的フィトンチッドの匂いは感じない。嗅覚、身体への作用は全く逆の反応を示す。無論、森の効能は等しく享受出来る。

 森に囲まれて住む人は花粉症とは無縁である。花粉アレルギーの元は街の人工的フィトンチッドに晒される事で体内に誘発されるのであり、森はそういうものを元から発散しない。森林に入ると森林総体としての心身への癒やし効果もある。水の音、風の音、鳥の声、森に抱かれると、そう言う森の環境因子が左右するのだろう。森は至る所、薬効に恵まれ、人々が森林と共にある事はこの上なく心身を健全に保つ効果があるのである。

 植物はフィトンチッド以外にもその生育メカニズムをコントロールする植物ホルモンと呼ばれるもの体内に作り出している。発芽のタイミング、屈光性(光の方向に枝を伸ばす)や屈地性(重力を感じて下に根を伸ばす)と言った作用はこれによる。エチレンもその内の一つで果実の熟成を促す。人間はそういった多種の植物ホルモンを農産物の生育管理や生活の利便に利用して来た。

 地球生命はほとんど植物の光合成に頼っているといっても過言ではない。太陽の光エネルギーと二酸化炭素と水さえあれば植物は有機化合物を作ることが出来る。それだけあれば自分で生きていけるのである。人間は今もってそういう技術を保有していない。千年を超える樹齢を持つ樹木は人間が伐採しない限りざらにある。二千年前の蓮の種子を現代に発芽させ開花させた事例もある。植物の生存能力の高さは人間や動物にはとても及ぶものではない。

 前置きが随分長くなった。さて大分県はその地勢のせいで九州でも森林比率が高い。その大分県において佐伯地方はかつての天領で日田杉で名高い日田地方をも凌ぐもっとも高い森林比率を有する。フィトンチッドの宝庫という事である。だから佐伯地方を訪い暫くそこに滞在し山野を逍遥する事は心身の洗濯にもってこいなのである。

 新緑の季節である。森に行くとむせぶほどのフィトンチッドが降り注いでくる。林野庁が森林浴の森百選を制定している。佐伯地方が選ばれていないのは全く解せない。

 佐伯の人々はその効能を意識する事なく暮らしている。馥郁たる芳香を感じない森の住人状態なのであろう。だからこれらの事に気づかない。声を上げようがないのかもしれない。

 人間や動物も体内から芳香を発散する時がある。フェロモンである。その効能は説明するまでもない。