忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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地名考 Y2-18

 富士山の「富士(フジ)」の原義は「急に下がった状態」である。だからそういう状態にある植物の「藤(フジ)」も語源を同じにする。漢字表記は後付け、宛字である。今残る地名の殆どは漢字表記であるが、地名に限っては表意文字だからといって鵜呑みにしてはいけない。古日本語を話してきた人々が名付けた本来の意味、その由来を誤認してしまう。

 因みに「富士」が「富土」になると全く意味が違ってくる。「富土(ホド)」は女陰に由来する。横浜市の「保土ヶ谷」も同じである。ホドとは女陰を想像させる地形を言う。海洋民が舟から陸地を眺めた。すると人が寝転んで股を開いているように二つの岬や山が海に突き出ている。その間の森から河川が流れ来たっている。それが何だか女陰に似ているからそういう地形をホド(ホト、フット)と名付けた。古代には性に対する羞恥心はない。声高に呼んでも卑猥な感情は湧いては来ない。近代になって入って来た西洋倫理観によって日本人が全体的に羞恥という感情を抱くようになっただけのことである。

 このような土地は重要な交易場所でもあった。だから「ホド」という発音を含む分かりやすい名前をつけ場所を特定した。地名の発生である。佐伯地方に伝わる「保戸(ホト)、蒲門(ホト→カマト)」も語源は案外同じかもしれない。

 縄文時代、渡来人の時代、その後の社会制度の変化によって地名も変質しあるいは新たに作られる。また、日本に住み着いた人々の言語がその地名を決めたはずである。因みに日本人は三種類のゲノムを持っているらしい。だから東北アジア、東アジア、南方アジアの言語が地名にも混交して残っている。

 漢字が伝来すると、時の権力の国威発揚や文化意識も高くなる。地名も文化である。勅命で二字程度の好字、佳字に変換させられる。この辺から古代から伝わる地名が変質し原義から遠ざかっていく。

 地名は人がそこに住み着いて以来の土地や人々の暮らしの記憶記録(口承)である。だから歴史記録(書物)に勝る価値を内包している事を知らねばならない。文字の無い時代の古い暮らしの有り様を教えてくれる。

 勿論、漢字表記であることのメリットもある。地名由来が分る。使用文字によってどの時代に発生したか推測も可能となる。「野(ノ)」は本来、「山の麓、緩傾斜地帯をいう(それが広域に広がったものが長野県や大野郡)」である。地形を見て名付けた古い地名であるが、一方、「田」という文字を含んでいれば稲作が始まって以降に名付けられた新しい地名であろう事は容易に想像出来る。

 明治の「地租改正」や「平成の町村合併」はその貴重な地名の抹消を助長してきた事を反省しないといけない。特に都会には最早古い地名は残っていない。行政管理の都合上、「いろは」、「甲乙丙丁」、「一丁目、二丁目」、と味気ない地名に変えさせられてしまったからである。その土地の歴史文化の断絶である。僅かに残された文物によってしか土地の歴史は辿れなくなった。

 地方には未だ多くの古くからの地名が残されている。但し、概ね二字程度の漢字に転換されている。好字や佳字を採用し原義から離れてしまったものもある。その由来をそこに住む人々も継承していないケースも多い。だから最早言語学者にも解読不能である。

 そう考えると我が佐伯地方はどういう状況になっているのか気になってくる。分析してみた。佐伯藩が幕府に提出した郷村仮名附帳(1803年)による。これによると郷村は23村、枝郷は134村、その傘下の集落は547集落ある。それだけの地名がある。勿論、脱漏もある。(下表は我が故郷の旧因尾村と旧中野村のみを例示)

 一方、国土地理院地図と照合すると記載されていない、あるいは変更されてしまっているものもある。公式記録に歴史記憶が十分には反映されていないのである。

 国土地理院地図に筆者の故郷の旧中野村の枝郷であった旧三股村を覗いてみると昔から伝わって来た地名は記録されていない。そのような極めて小さな場所の地名など行政上も記録する手間以上に不要なのである。精々「大字」が分かればよい。

 集落で最年長になった母に聞いても、記載のない集落内の地名や漢字表記や由来ももう覚束ない。昔から生活を共にした人々やその暮らしが日常から消えたからである。その地名を口にすることがなくなったからである。このことは佐伯地方に限らず日本全国に同様に起こっている事態であろう。

 さて、佐伯地方の地名はその特徴的な地勢に由来するものと容易に分かる。ほとんどの地名は下記の文字(野、谷、原、等)を使用している。まずは自然の有り様をそのまま地名にする。これに東西南北等で分類(大野、中野、小野、等)、あるいは住む場所の状態をつけていく(谷口、山脇、坂本、等)。

 土地と生活が密接になってくると単純な表記では不便になってくる。更に詳細に意味付を行っていく。

 更に政治社会面からの地名も発生してくる。

 ひょっとして古代から残っている地名はないものか探していくと、よもやとは思うがアイヌ語由来ではないかと思いたくなる地名も出て来た。

 以上は机上の論。実際にその場所に行って地形を観察しその地の人々の暮らしを体感しない限り由来は確認出来ない。民俗学の世界である。例えば、市内周辺から見える「椿山」の由来を初めて理解した。「つばき」とは「崖、つばける=崩れる」を意味する。だから「椿山」と名付けた。実際にその場所にいって観察したから間違いない。

 佐伯市ではありながら、旧市街を除けば、その周辺地域は行政の都合により簡潔な地名に変更されなかったことだけは幸いである。それでも、時々刻々、それぞれの地で地名の消失が進行している。人が住まなくなった集落、行事を維持することが出来なくなった集落、そういったところから地名もまた歴史の彼方に消えて行っている。

 昔ながらの地名を記録することは大切ではあるが、それが日常的に使われるコミュニティの復活がもっと大切なことである。さもなくば地名は元々消えゆく運命なのであろう。

  参考文献:享和・郷村仮名附帳

       日本の地名(鏡味完二)

       地名の研究(柳田國男