忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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海ゆかば(西南戦争異聞) Y3-09

 空軍力のない時代、戦争においては艦船の確保と運用は大いに物を言った。四囲を海に囲まれている日本の場合は特にそうである(世界で面積は61位、海岸線の長さは6位)。

 「戊辰戦争(1868-1869)」では江戸開城後も「榎本武揚」は幕府艦船の多くを新政府に引き渡さず北海道に行って「蝦夷共和国(英仏は事実上の政権認定)」を建てた。新政府は函館湾海戦でこれを殲滅したが実態は各藩の艦船出動に頼る危ういものであった。それまでは幕府を除けば薩摩藩が最多の艦船と唯一の造船所を保有していた。「島津斉彬」の「集成館事業」の成すところである。薩摩藩も実態は独立国のようなものであったのだろう。

 新撰組の「近藤勇」と「土方歳三」は幕府の富士山丸に乗船し江戸に帰参、その後、土方歳三は「徳川慶喜」が大阪から脱出した時に使った開陽丸に仙台湾(東北戦争)で収容され函館戦争で散った。

 

 西南戦争は質の薩軍と量の官軍が戦った側面がある。大概、最後は量が制する。官軍はその量の運用(兵員と武器輸送)を船によった。薩軍が船を抑え運用していれば勝負は分からなかったかもしれない。「不平士族」は薩軍にとって潜在的な量として全国に存在していたのであるから。薩摩藩は「薩英戦争」で多くの艦船を失い、加え主要艦船は新政府に献納していた為、仮に薩軍にその意図があったとしても運用は難しかったろうが。

 官軍は「熊本鎮台(谷干城少将、児玉源太郎少佐)」を救援すべく薩軍の背後、「日奈久」から上陸し大量の兵員と武器を送り込む事で一気に形勢を優位にした。これを契機に薩軍の後退が始まる。

 

 大津事件(1891年:ニコライ・ロシア皇太子が斬りつけられ負傷)の首謀者・津田三蔵もここから上陸し負傷、これが契機かは不明もそれまでの西郷尊崇から西郷非難へと変節している。3年後に事件を起こす。因みにこの前の陸戦では乃木希典少佐(後、陸軍大将、日露戦争旅順攻囲戦指揮)の部下が連隊旗薩軍に奪われた。乃木は鎮台に入り自らの処分を求め、自決の挙に出るところを児玉少佐(旧長州藩、後、日露戦争満州軍総参謀長、台湾総督、陸軍大臣)が制止している。

 戦場ではゲベール銃(先装)、ミニエール銃(先装)、スナイドル銃(後装)が使用されたがその性能差は大きい。官軍は最新のスナイドル銃を主要装備としていた(銃身の先から弾薬を装填するのが「先装」、手元で装填するのが「後装」)。

 新政府は鹿児島にあった「弾薬製造設備」と弾薬を戦端が開かれる直前に船舶を運用して運び出した。このことは薩軍にとっては致命的であった。日本で唯一のスナイドル銃の弾薬(弾頭、火薬一体型)を製造する設備だったからである。ここを薩軍が抑えていれば官軍は弾薬不足に成す術がなかったかもしれない。同様にそれは薩軍が刀剣主体に戦うことになった遠因だったのかもしれない。官軍の多くは徴兵による庶民であり、薩軍士族には白兵戦では太刀打ちできない。

 薩軍は官軍の兵員と武器の量的優位の前に追い詰められ大分県に矛先を転じる(野村忍介率いる奇兵隊、約三千名)。侵攻経路は戦国時代の島津家久による豊後侵攻時と全く同じである。官軍の勢力を分散させることと四国に渡海する目的とも言われる。渡海には中央の不平士族を糾合して攻勢をかける薩軍の期待がある。薩軍には既に九州の旧藩から多くの不平士族が参加していた。大分県でも中津(中津隊)や竹田(報国隊)の士族が合流した。唯一、臼杵士族(臼杵隊)は官軍につき奮戦した。

 ここでも官軍艦船による豊後水道守備と艦砲射撃が威力を発揮した。四国渡海を目論む薩軍は竹田での市街戦の後、臼杵に進出したが艦砲射撃で後退を余儀なくされる。津久見、佐伯、蒲江と後退し日豊国境の山岳へ追い詰められた。刀は大砲の前になす術がない。西郷隆盛は日豊山中に南北から追い詰められ遂に「全軍解散」を宣す。この間、豊後戦は約3ケ月に及んだ。官軍の警察隊として参加した新撰組の剣豪「斎藤一」はこの山岳戦で負傷している。斎藤は戊辰戦争では函館戦で散った土方歳三と共に東北戦争を旧幕府側で戦っている。因果なものである。

 西南戦争は「田原坂戦」が注目されるが、豊後水道における艦船の運用と日豊山岳戦ももっと注目されていいように思う。覇権は海を制するところに存する。山岳戦は谷干城少将(旧土佐藩、熊本鎮台司令官)と児玉源太郎少佐が重岡から指揮を執った。

 実直で我慢強い県南の民衆は両陣営により多大な苦難を強いられた。今はその記憶も風化してしまった。地域の歴史文化はその当事者により容易く葬られてしまうが故に、自らの文化意識のたゆまない鍛錬が大切なことである。地域行政にとっても最優先の取組課題の一つでもあろう。

もう一つの西南戦争 Y2-12 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 日本は四囲が海にも関わらず、古来、ほとんどの天皇はその海を見た事がなかった。朝廷は「神武東征」以来、海とは縁遠くなっていたのである。帝国海軍を統帥する「明治天皇」も新政府が成って「東京遷都」の時に初めて海を見た。そのまま海を知らない方が良かったのかもしれない。

 帝国海軍は拡大、艦船は巨大化していく。

 海行かば 水漬く屍

 山行かば 草生す屍

 大君の辺にこそ死なめ

 かへりみはせじ