忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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大いなる海、大いなる精神 Y3-10

 ラグビーのワールドカップが始まった。ポリネシア系の国々が強い。彼らは瞬発力を必要とする、あるいは体を酷使するスポーツで有能である。アメリカンフットボール、相撲においても同様である。圧倒的に強い。体重に対する筋肉と骨の比率が他の人種に比較して高い為といわれる。

 人類が舟を手にした時、海は彼らの道になった。ポリネシア人の海は太平洋である。太古から想像を絶する大航海に乗り出し、これに耐え得るよう体を変化させていった。世代を重ねその体は巨大化していったのである。因みにガリバー旅行記の巨人国のモデルはトンガらしい。 

大気と水への誘い 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(9) - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 我が豊後水道の海の民(海人族)もそのポリネシアから海流に乗ってやってきた人々の遺伝子を持っている(に違いない)。ただ、日本の海岸線は約36千Kmと世界で6番目の長さである。その沿岸を漕ぎ回るだけで大洋に乗り出すのと同じ距離がある。だがポリネシア人のような強靭で巨大な体にはなれなかった。沿岸航海に遺伝子を変えるだけのインパクトはなかったのである。

 瀬戸内海は日本の海岸線の20%を占める。その海の民の活躍の場になった。 

海からの覇権 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(7) - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 豊後水道と響灘は瀬戸内海に含まれる(環境省瀬戸内法)。もっとも領海法では含まれない。その瀬戸内海の水量(容積)の90%は太平洋海水、10%が河川流入で1.4年で90%が入れ替わる。平均水深は38mと浅い。豊後水道がもっとも深く平均水深は72mである。

 最終氷期最盛期の2万年前、海水面は現在より120~140m低く日本は大陸と陸続きで瀬戸内海は未だ生まれていなかった。その後、徐々に海水面が上昇し13千年前に豊後水道から浸水し始め7千年前に関門海峡が出来て瀬戸内海が完成する。この間、瀬戸内海の水系は東西に分かれ豊後水道と紀伊水道に大河が出来た。その分水嶺は備讃瀬戸辺り(平均水深16mと最も浅い)で今でも東西からの潮流が出会う場所である。8千年前、ここで東西の瀬戸内海が繋がり海の道が出来た。縄文時代早期に当たる。

   

 瀬戸内海は関門海峡豊予海峡鳴門海峡、友ケ島海峡で外洋と繋がる。中でも豊予海峡の海釜(釜状にえぐられた凹地)と鳴門海峡の潮流(三大潮流)は世界規模である。

  

 瀬戸内海はその広さにおいて世界最大の内海である地中海には遠く及ばない。だが瀬戸内海と違い地中海はほとんど動かない。だから海峡も瀬戸内海のそれと違っておとなしい(ジブラルタル海海峡の潮流は平均4Km/h)。理由は下記の記事に書いた。瀬戸内海は優れて豊かな海なのである。

地中海は棲みにくい - 海の向こうの風景 (hatenablog.jp)

 ちなみに「縄文海進」時の瀬戸内海の状況は下図の通りで平地の多くが沈水した。岡山市大阪市などは水面下にある。

 豊後水道沿岸の我が佐伯地方の状況は下図の通りで現在の市街はほぼ水没していた。

 日本各地の縄文遺跡や弥生遺跡はかつて沿岸に位置していたことが分かる。「吉野ヶ里遺跡」のそれが端的に示している。漁猟を専らにしていたことがよく理解出来る。

 瀬戸内海の底はどうなっているのだろう。地質は陸上の地質から概ね推測可能である。南側に東西に中央構造線(断層)が走っていて豊予海峡鳴門海峡、友ケ島海峡はその上にある。太平洋側(フィリピンプレート)から突き上げられた南側の付加体がここで北側と押し合いへし合いして褶曲した地質の窪地が瀬戸内海である。

 その底質の現在の分布が下図である。瀬戸内海の出口に当たる豊後水道と紀伊水道には明らかな違いがある。豊後水道は含泥比率が低くほとんど砂地である。その分、無脊椎底生生物(マクロベントス)が少ない。地形(水深が深い)と潮流による影響と推測される。因みにほとんど動かない地中海の底は酸素不足で生物がほとんどいない。

 

 豊後水道は太古より瀬戸内海に入る海の道であり太平洋に出る海の道であった。神武東征の道であり、律令時代の南九州からの年貢運搬の流通路であり、戦国末にリーフデ号が豊後を目指した道であり、参勤交代の道であり、大日本帝国海軍の艦船が呉軍港から出撃した道である。戦艦大和もこの水道に雄姿を現した。もっとも紀伊水道の方がその視点では遥かに賑やかだ。

そうだ、旅に出よう 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(47) - 忘れなそ、ふるさとの山河 郷土史編〜 (hatenablog.com)

 ポリネシア人は数千年前に丸太をくりぬいた小さな刳舟(くりぶね)で太平洋に漕ぎ出して行った。信じ難い暴挙のようにも思われるが人間に本来的に宿る未知なるものへの興味が行動せしめた。経験知がそれを継続せしめた。星と風と潮流を読みハワイ諸島や南米に到達しこれを往復し、そして自らの体を進化させたのである。まことに人間の環境適応能力に驚く。もっともそれは動植物全般に言えることである。適度の環境より過度の環境が変化を促す。人間社会も同じである。地域活性策が中々現状から脱却出来ないのもそういうところにありそうだ。過度の心的環境(緊張感)を作り出すことがポイントなのかもしれない。

 縄文・弥生人は同じような小さな刳舟に乗って日本沿岸や大陸へ自由に移動し海のネットワークを築いた。国が成立し国境が出来ると海の道は最早自由を失い管理されていく。それと共に日本の海の民は僅かに残っていたポリネシア人の遺伝子を消失してしまった(かもしれない)。いや、そもそも陸に上がったことが決定的な要因であろう。

 日本人にとって瀬戸内海の存在は大きい。日本の歴史は、古来、大動脈として存在してきたこの海が作ったといえなくもない。瀬戸内海が出来なかったら日本の歴史はどのようなものになっていただろう。内陸の陸路として通じたであろうが海の道とは圧倒的な物流や情報の差が生じる。東西の分散国家になっていたかもしれない。その意味では日本人にとっては「大いなる海」である。同じ内海の地中海も偉大な歴史をつくった。

 ポリネシア人は幸か不幸か小さな陸(島)は生活の保証をしてはくれなかった。大いなる海に漕ぎ出して行くしかなかった。そして統一国家の代わりに強靭な体を手に入れた。「大いなる精神」を手に入れた。その精神に触れてみたい気がする。

 そういう視点で彼らのラグビーを観るのも悪くない。