佐伯地方に残る古道は概ね峠越えか尾根伝いの道である。その尾根道を辿っていると時に気になる山に出会う。その一つが鶴見半島の中程にある「殿上山(とのがみやま、331m)」である。その山名が気になって仕方がない。日本にもそう多くはない山名と思われる…
恥ずかしながら「傘鉾(かさぼこ)」という言葉を最近になって知った。佐伯地方のある海辺の集落の地元民との会話を通じて”盆踊りの習俗”の中に偶々それを発見したのである。 京都の祇園祭の「山鉾」なら知っている。もっとも「山」と「鉾」の違いは知らなか…
早朝、六時前から既に草刈り機のうなり音が聞こえてくる。この時期、農山村では夏場の雑草との格闘は終わりが見えない。因みに草刈りは欧米にはあまり見ない光景である。そもそも日本のように雑草が勢力を張る事はない。日本の植生は多彩で土壌は実に豊かな…
伊豆半島西側の付け根に位置する韮山は中々興味深い土地である。北条氏発祥の地であるが、1160年、ここに源頼朝が配流され歴史の表舞台に登場してくる。室町時代になると足利義教の四男政知が鎌倉公方として下向するが関東に入れずこの地に留まった(堀越公…
箱根(山)と西伊豆(海)へ往復400km余りを走った。二泊三日の古希記念の旅である。近場で温泉に浸かれて自然が素晴らしく歴史の豊かなところ、それが選択理由であるが何とも欲張りなことである。 この地が特別に人々を魅了するのは何故だろう。「全て富士…
「あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。」、「われわれの本性は怠惰へと傾いている。だが、われわれは活動へと心を励ます限り、その活動の真の悦びを感ずる。」(”若きウェルテルの悩み”、live the way) 昨…
産土神に帰省の挨拶でもしようかと長く傾斜のきつい石段の参道を登った。「白山神社」はいつ訪れても神々しい雰囲気を醸し出している。昔は鬱蒼とした森の中に佇んでいたが周辺の森が伐採されて今はやや神々しさも薄れた感があるが、それでも苔むした拝殿前…
1.からむし 苧(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)などと書く。イラクサ科の植物で繊維(靭皮繊維)が採れる。有史以前、縄文時代の頃から利用されてきた日本でも代表的な植物繊維である。現在でも越後上布や小千谷縮の材料などに使われている。 大和…
1.中心地 古来、族長や首長が住む場所はその生活圏の中のもっとも恵まれた地(食料生産、諸資源、物流等)であったろう。防御に優れる地であれば尚良い。そういう場所が国や地域や集落の中心地に選ばれて来たはずである。もっとも古代王権はその中心地を頻…
1.古代佐伯氏の職掌 「佐伯」の名前は545年に「佐伯連」として初出する(第三十代敏達天皇時代)。古代、佐伯氏は大伴氏に連なる朝廷に仕える軍事氏族であった。大伴家持の「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大王の辺にこそ死なめ」は大伴・佐伯両氏…
1.海士と海女と海人と海部と白水郎 いずれも「あま」と呼ぶ。海士は男性の”あま”、白水は水に潜って獲物を採るのが上手な人がいた中国の揚子江流域の地名、白水郎はその人々のことをいう。いつしか日本列島に到達したのであろう。国籍など無用の海に生きる…
1.景行天皇、豊後に上陸す 日本書紀中の景行天皇(第十二代、実在不詳)の事績を記した部分を「景行記」という。ここに九州遠征(熊襲征伐)の記述がある。「熊襲」は東北の蝦夷同様に九州南部に住んでいた大和王権に従わない勢力である。 景行記の豊後に…
<笑わない佐伯の歴史> NHK番組「笑わない数学」に触発されて「笑わない佐伯の歴史」をカテゴリーに追加することにした。「笑わない数学」は、数学はとっつき難いので諦めたという人を対象に、”片思いの恋、わからない快感”に通じる番組に仕上げている。歴…
ラグビーのワールドカップが始まった。ポリネシア系の国々が強い。彼らは瞬発力を必要とする、あるいは体を酷使するスポーツで有能である。アメリカンフットボール、相撲においても同様である。圧倒的に強い。体重に対する筋肉と骨の比率が他の人種に比較し…
空軍力のない時代、戦争においては艦船の確保と運用は大いに物を言った。四囲を海に囲まれている日本の場合は特にそうである(世界で面積は61位、海岸線の長さは6位)。 「戊辰戦争(1868-1869)」では江戸開城後も「榎本武揚」は幕府艦船の多くを新政府に引…
宮崎県の「美々津」は紀元二千六百年記念事業の一環として「日本海軍発祥の地」となった(1940年)。「神武東征」の出港地としての伝承による。日本帝国によるお墨付きである。だから美々津は「御津(みつ)」に由来するとも言われる。因みに大友氏が島津氏…
「大神」は”おおみわ”と読む。「大三輪」とも書く。「豊後大神氏」とも無縁ではない。但し、この場合は”おおが”と読む。 豊後大神氏の源流を調べたいと思っていた。「大和大神氏」を辿ることになる。すると「大神(大三輪)神社」に行き当たる。そこは「記紀…
豊後佐伯氏は主家・大友氏の改易に伴い故地・佐伯での事実上四百年の幕を閉じた(1593年)。最後の当主「佐伯惟定」は佐伯を離れ浪々の身となる。随身を除けば家臣もそれぞれ自ら生きる道を探さざるを得ない。多くは帰農した。武家の宿命とはいえその落魄を…
「豊後土工」のふるさとは、ただただ息を飲むほどに美しい。豊後水道に面したリアス式海岸がそのふるさとである。 古来、この地は「海部郡」と呼ばれその祖先は「海人族」を源流とする。近世には「佐伯の殿様浦でもつ」と称えられた漁業の盛んな土地であった…
豊後・大友氏の家臣、「柴田紹安」は野津郷(現臼杵市)を領した「豊後国橘姓柴田氏」の棟梁で豊薩戦時(1586~1587年)には大友氏の出城である「宇目郷・朝日岳城」の城主を務めた。ここで島津に寝返ったことが結局は野津郷・柴田一族断絶の要因となった。大…
「青殺(さっせい)」、何とも非情な言葉である。茶の生葉がその酵素により発酵するのを熱処理して止める事をいう。「失活」ともいう。こちらの方が未だ茶に対して温情がある。 古来、茶は日本の生活文化の重要な位置を占めてきた。かつては生糸と並ぶ主要な…
二年前、「母のツバメ」を書いた。今でも一番気に入っている文章かもしれない。その「春告鳥」が昨年は母の家に営巣しなかった。蛇に狙われた記憶が残っていたのだろう、戻らなかった。母は一人ぼっちになった。 それが今年はツバメに加えスズメも母の家に戻…
母を病院に連れて行った。その目の前に五所明神がある。佐伯藩の一宮である。加茂、春日、住吉、梅ノ宮、稲荷の五所の明神を祭神とするのでそう呼ぶ。佐伯藩時代には旧切畑村の八坂神社から宮司を出してもらい名字も本家の橋迫から遠慮してか橋佐古に変えた…
全国には「和田」がつく地名が実に多い。概ねその多くはかつて海人族(あまぞく)が殖民した地である。海人族の祭る神(祖神)は「大綿津見神」であるが綿(ワタ)は海を意味する。和田はワタが転訛したもので、輪田、波多、畑、半田、八田なども同様である…
・1870年:平民苗字許可令 平民も自由に苗字を公称可能 ・1871年:戸籍法制定 ・1875年:平民苗字必称令 国民は全て苗字を公称義務 江戸時代においても庶民は苗字を持っていた事が証明されている。貴族や武士のように領地(「名字」の由来)は持っていなくと…
富士山の「富士(フジ)」の原義は「急に下がった状態」である。だからそういう状態にある植物の「藤(フジ)」も語源を同じにする。漢字表記は後付け、宛字である。今残る地名の殆どは漢字表記であるが、地名に限っては表意文字だからといって鵜呑みにして…
有島武郎に「或る女」という小説がある。独歩の妻だった佐々城信子がモデルである。今で言う飛んでる女である。”ある日、独歩が家に帰ってくると信子がいない”。信子に捨てられて「余は一種異様の感あり」。暫く未練を引きずっている。「源叔父」はそういう…
「忘れなそ、ふるさとの山河」という著書名(及びブログ名)は故郷を去った筆者に対する今は亡き父の言葉である。忘れるどころか望郷の念は哀しい程に深い。だから「小春」を読むと佐伯を想う独歩の心情が痛いほど分かる。 小春とは(辞書によれば)、初秋の…
「国木田独歩碑」は城山の本丸外曲輪の入口、冠木門の土台跡に立っている。城山に建てるなら場所はここではないような気がする。 「春の鳥」を読めば自ずと天守台のある本丸の内に建てるのが適っているような気がする。「白痴の少年、六蔵」の側に立っていて…
「歎かざるの記」は国木田独歩が大分県佐伯市に赴任する半年程前に起筆した日記である。よって佐伯地方の情景や独歩のそこでの思索状況も実に細やかに綴られている。小説の題材も多く散見される。 旧坂本邸(独歩の寄宿先) 当時の佐伯地方をこの日記やその…