佐伯地方に残る古道は概ね峠越えか尾根伝いの道である。その尾根道を辿っていると時に気になる山に出会う。その一つが鶴見半島の中程にある「殿上山(とのがみやま、331m)」である。その山名が気になって仕方がない。日本にもそう多くはない山名と思われる。福井県の殿上山(てんじょうさん、683m、中腹に白山権現を祀る禅定神社)、福島県の殿上山(てんじょうさん、810m)などがある。北九州には似たような名前の戸の上山(とのうえやま、518m、山頂に戸の上神社)がある。
本来、「殿上」とは宮中を意味する。「殿上人」と言えば、宮中清涼殿の「殿上の間」に昇ること(昇殿)を許された者を言う。官位五位以上の上級貴族に限られる。そういう視点でこの山の名を考える時、中央から遥か遠隔地で政治的にも重要視されずに来たこの地に、何故このような不釣り合いな山名があるのだろうか。そこに高貴な人物の存在を想像させられるのである。
この山麓(米水津小浦)には貴人上陸(1358年、海上荒天による避難)の伝承譚がある。貴人は南北朝の争乱時代の後醍醐天皇の皇子西征大将軍懐良親王である。今も地元に残る粟嶋神社はその臣下渡辺左衛門尉が勧請したものと伝わり、鳥居脇には親王が上陸の一歩を印したと言われる岩がある。そのまま定住を決めた渡辺一族が再び西征の為に船出して行った貴人を敬い、そこから見上げる山に殿上山と名付けたと考えられないだろうか。これが殿上の唯一の手掛かりである。
因みに福井県の殿上山の麓には平家落人が隠棲した地がある。この山にはその見張り所が置かれていたとの事である。山名は一門の誇りに由来するらしい。貴人由来の傍証になりそうではないか。
さて、佐伯地方の海岸地域は九十九浦と別称され、古来相互に隔絶し独自の生活文化を守って来た。その地勢的な要因に加え、だからこそ外部世界からの来着者(新天地、逃避先)が相次いだ歴史にもよるのであろう。中央との権力争いに負けた勢力が逃げ込むに都合のよい土地柄で強力な権力が不在だったという事である。
この海岸地方に限って何故か「地下(じげ)」という地名が多く残っている。大分県の他の地域や対岸の南予地方には知る限り見当たらない。この地方の内陸部にもない。
「殿上」の対義語は「地下」である。「殿上人」に対しては「地下人」という。昇殿を許されない者を地下と言った。一方、地下には「集落の古くからの拠点、地元の人」という意味もある。この場合は官職とは無関係である。
その地下がこの海岸地方に限ってやたらに多いのは何故だろう。殿上山との関係はないだろうか。集落の拠点という意味なら内陸部や他の地域にあってもいい。だから官職に関係する人々に由来すると考えたくなるのである。
もっとも相次ぐ来着者に対して元々そこに先住していた人々が地下と名付けたと考える方が筋は通りそうである。先住と後住という関係性が色濃く残る歴史を持つ地であればこれが妥当な結論かもしれない。その地下に住む同級生に確認すると地元では”地下組”と呼ぶそうである。長崎では昔からそこに住んでいる人を”地下もん”と呼ぶと教えられた。合点がいく。長崎も昔から内外から多くの人々が入り込んできた土地なのである。
さて殿上山である。郷土史の先輩に意見を求めると一つの見解を示してくれた。佐伯藩では参勤交代は海上交通に頼った(城下の住吉神社には藩主毛利氏寄贈の御座船の絵馬が飾られている)。その際、浦々の高台(山)に狼煙台を設置し殿様のご帰国をこれで逐次(船の通過)伝えていた。鶴見半島にもその狼煙台があった。殿様を敬う意味でそこにある山を殿上と名付けた可能性はないか、ということであった。ただ、この半島は城下を行き過ぎたところにあり狼煙台は目的に適わない。また、ここだけに殿上山と名付けるのも納得がいかない。どうしても貴人との関係性にこだわってしまうのである。よってその由来は筆者の中では未だ解決していない。
古道を歩くという事は忘れられた歴史を再発見する事である。それはまた豊かな想像力を養ってくれる。
了