忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

郷土史研究

南海部(みなみあまべ)の夢物語 Y2-07

豊後佐伯地方(旧南海部郡)では山に登ればどの山からも豊後水道とその向こうの四国の見事な眺望が容易く手に入る。16世紀末の最後の国人領主佐伯惟定も、その後に入封して来た毛利高政も、それぞれの山城から同じ光景を眺めた。海に出よう、海で生きよう、…

家老はつらいよ Y2-06

いつの世も部下と上司の関係は面倒なものである。武家の世であってもそうは違いがないのではなかろうか。江戸期各藩の経営(責任者)は名目的には藩主という事になろうが実質的には家老が担って来た。それでも明治維新で幕藩体制が終了するまで270年間、今で…

城山と豊後佐伯城 Y2-05

「秋の半ば過ぎ、余は紅葉狩りせんとて城山の頂に登り、落葉蕭々の間、しばしば耳を澄まして風の行方を追ひ、我知らず古跡一種の寂寞に融け、行々楽しみたり。 三十年の昔は、ここに封建の古城立ちぬ。城市の民は月と日とを灘山の肩に迎へて、これを古城の背…

存城と廃城(豊後佐伯城サグラダ・プロジェクト考) Y2-04

前回、”廃仏毀釈”により貴重な文化財が破壊されたことを書いた。今回は同じ明治政府による”城郭取壊令(廃城令)”を見る。 今やどの地域においても城の欠片でも残っていれば貴重な観光資源となり文化財となる。その建築遺構が現存でもしていればもう大変な騒…

神様仏様 Y2-03

中国の文化大革命(1966年から10年間続いた)は中国五千年の貴重な文化財を悉く破壊してしまった。革命とはかくも下劣な事をする。それだけならまだしも文革による犠牲者(死者)は40万人あるいは2千万人は下らないとまで言われる。毛沢東の政治的意図を盲信…

民俗のアジール Y2-02

あの山の向こうが目指すべきサンクチュアリ、我が一族のアジールである。 この山を越えてこの川を遡り、 こここそがその地である。 サンクチュアリ、アジール、という概念は西欧由来だが、一般的に前者は”聖域”、後者は”避難所”と訳される。本来同じ意味合い…

豊後と万葉歌と白水郎と Y2-01

豊後佐伯湾に浮かぶ大入島を訪問した時に初めてその歌を知った。お恥ずかしい限りである。その歌碑が島の北東海上の岩礁の上にある。ここに来て万葉の人々へ思いを馳せる人もいるのだろうか、いるとすれば、どういう人なのだろうと気になってくる。 万葉集の…

そうだ、旅に出よう 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(47)

コロナ禍で気持ちよく旅行も出来ない。ここは江戸時代、豊後日出藩からの庶民の伊勢参宮日記を見ながら江戸期の旅に暫し思いを馳せてみたい。当時の庶民の最大の楽しみは伊勢参りである。伊勢参りを口実の上方への物見遊山でもある。時期は農閑期となる冬季…

大入島物語 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(46)

“くるすばで迷走”では、結局、我が柴田姓のルーツを辿る事が出来なかった。ところが見るに見かねてか貴重な情報が届いた。送り主は高校の後輩で実家は柴田姓というから俄然やる気再燃である。 戦国から江戸初期であろうか大入島の片神浦に柴田三兄弟が落ちて…

"くるすば”で迷走 完結編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(45)

奥州の古代史を概観すると下図の通りとなる。安倍氏、清原氏、藤原氏が朝廷と鎌倉幕府に滅ぼされた。高橋克彦の奥州三部作を読めばその哀感漂う滅びの歴史ドラマが切々と胸に迫って来る。お薦めである。 さて、柴田郡柴田氏の遥か筑前国への移住の理由を探ら…

"くるすば"で迷走 続編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(44)

前回、柴田姓のルーツ探しは宇佐地方まで来て行き詰まってしまった。この地方(宇佐神宮のある豊前)には柴田姓も田部姓(土持氏の祖)も極めて少ない。手掛かりがない。よってこの線は一旦放置しておく(下図に整理)。 あらためて九州最多の柴田姓が集住す…

"くるすば"で迷走 後編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(43)

全国の柴田姓の集住地について整理しておく。九州では福岡県に圧倒的に多く、中でも糸島半島周辺に集住する。大分県では佐伯市が最多数であり、中でも本匠地区に集住する。そもそも柴田氏の祖は九州には無い。奥州の柴田氏、あるいは尾張の斯波氏が主流であ…

"くるすば"で迷走 前編 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(42)

筆者の生まれた山間の村落(豊後国・海部郡・旧中野村支郷三股村)の目の前で佐伯地方最大の河川・番匠川に”久留須川”が合流している。また、この村落には大分県で最も”柴田姓”の人数が多く集住している。昔の大字に該当する単位である。どうして久留須川と…

名字に見る水運と人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(41)

昨年来、豊後探訪において疑問に感じていたことがある。佐伯地方が属した豊後海部郡(佐尉郷、佐加郷、丹生郷、蒲戸郷)の郡衙(政庁)が豊後国衙(国主所在地)や大分郡郡衙の近傍、大野川河口近辺に置かれていたという事実である。穂戸郷と呼ばれた佐伯地…

名字に見る歴史背景 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(40)

豊後及び海部郡佐伯地方の歴史背景をあらためて名字から紐解いてみた。全てこの絵(壇ノ浦の戦い)に始まる。武家政権の成立である。中央武力政権と氏族の関係性(勝者と敗者)、またそれぞれの国(令制国66カ国)の固有性(地政、地勢)の違いにより概ね把…

豊後と禅宗五山十刹 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(38)

禅宗、特に臨済宗においては五山十刹の制がある。権力者による禅宗寺院の寺格である。室町幕府が南宋の制度を導入し特に関係の深い寺院を選んで支援、保護した。天下五山、京都五山、鎌倉五山がある。十刹となると雨後の竹の子の如くである。日本では時代に…

ふるさとの人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(37)

番匠川は豊後海部郡・佐伯地方を東方の豊後水道に向かって流れ下っている。豊後では祖母傾山系を源流とし別府湾に向かって流れ下る大河大野川に次ぐ規模の川である。 その源流から主要な流域に亘って昭和初期まで因尾村と中野村があった。両村は合併され本匠…

佐伯国へ陸行水行すること遥かなり(文人墨客来たれ:続編) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(36)

中世あるいは江戸期における移動手段は、”陸行”であれば徒歩、”水行”であれば風待ちの帆船である。豊後は山の多い国であるが、特に佐伯地方は殆ど山岳地帯と言っていい。何処に行くにも幾つかの峠越えは避け難い。一方、古来、陸行より水行の方が便利この上…

文人墨客来たれ、されど佐伯は遠し 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(35)

豊後佐伯地方は人や物流の要路から遠く離れ、極めて僻地性の高い地である。すべて地勢の閉塞性による。ただ、海上だけは、唯一、外界への開放空間であった。この特異な地への歴史的著名人の往来の中に何か新たな発見でもないものか考えてみた。 まずは古代か…

歌合に見る中世の生業(なりわい) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(34)

中世は、都市が勃興し、銭が流通し、交通網が整備され、商品経済が発達し、庶民生活が活況を呈した時代でもあった。その諸相を庶民の生業(なりわい)から窺うことが出来る。これを対象にした貴族社会の歌人達による歌合が伝わっている。七十一番職人歌合(…

番匠川 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(33)

全国の一級水系(幹線流路)は109水系ある。一級河川数となると支川を含む為14千近い。例えば淀川は全国最大の965支川(河川)を持つ。それぞれの名前の由来も様々である。ただ職業名を幹線流路の名称にしているのは、唯一、全国でこの番匠川だけである。“番…

君の名は、綺羅星の如く 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(32)

世界最古の木造建築は法隆寺である(607年創建)。1,400年間、よくぞ残ったものである。これからも大切に保全し後世に残していくことに誰も反対はしないであろうし、古くなったので建て直そうと言う人もまずいないだろう。 その法隆寺以上に古いものがある。…

マックス・ウェバーも瞠目 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(31)

古来、豊後海部郡に棲んで来た人々は海や陸を自由に行き来した人々であったが、江戸期には厳然として領民である事を強いられ、ほぼ他所へ移動する事なくこの地で自らの手で暮らしを立てざるを得なくなった。在方(農村)、浦方(漁村)、城下(町人)、それ…

豊後佐伯藩領を覗き見する 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(30追補)

本稿は後進の将来の研究用の支援になれば幸いと考え掲載しておくものである。豊後佐伯藩の郷村と石高について絵図と共に示す。江戸幕府が国絵図とともに作成させた一国(旧国)単位の郷村高帳による。郷帳は慶長、正保、元禄、天保の四回作成されている。今…

恨めしや太閤秀吉、佐伯は負けぬ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(30)

豊後佐伯藩(2万石)の江戸上屋敷門が東京に残っている。愛宕下大名小路から移築したらしく、東京都の貴重な文化財とのことである。2万石にしては立派な上屋敷であったに相違ない。江戸駐在経費も結構なものであったろう。地元豊後佐伯市にも県の文化財とし…

恨めしや、太閤秀吉 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(29)

かつて豊後は西国一の国力豊かで先進文化が栄えた地であった(主として国東地方、豊後大野地方)。鎌倉から入国して来た守護大友氏もこれを基礎に一大覇権国家を営んだ。島津氏の薩摩を除けば概ね九州を制したのである。古くより開発された大野川流域一体の…

折れず、曲がらず、斬りやすい 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(28)

日本刀の事である。 大雑把に、西欧刀や中国刀が、直刀、両刃、片手握りで、“突き、叩き斬り“を専らにするのに対して、日本刀は、反り刀、片刃、両手握りで、”引き斬り“を専らとする。戦い方(騎馬、徒歩)や火器導入の早い遅い(刀の衰退)がその形状や開発…

ミトコンドリア・イブとシンデレラ譚 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(27)

ミトコンドリア・イブ(想像図)とその遺伝子の伝播ルート(時間軸) 日本の説話・昔話は、平安末期の「今昔物語」、鎌倉初期の「宇治拾遺物語」が双璧である。日本のみならず、インド、中国にも採話している。これらを含む説話集の多くは古くより日本全国に…

豊後磨崖仏新説 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(26)

日本の磨崖仏の約八割は豊後(大分県)にある。何故なのかは分かっていない。一般説では、古くから仏教文化が栄え、加工し易い凝灰岩が広く露出していたのが理由、としている。 岩山や断崖を穿ち彫る、という仏教遺跡としての石窟(寺院)と磨崖仏とでは歴史…

プレスター・ジョン(Prester John)と天徳寺 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(25)

12世紀、西欧では何度も十字軍を発出しているが聖地イスラエルの奪還が中々うまくいかない。それがあってか、東方にキリスト教国を建てた王がいてイスラム勢力を攻め立ててくれている、との噂が流布した。この王がプレスター・ジョンである(無論、伝説の類…