郷土史研究
産土神に帰省の挨拶でもしようかと長く傾斜のきつい石段の参道を登った。「白山神社」はいつ訪れても神々しい雰囲気を醸し出している。昔は鬱蒼とした森の中に佇んでいたが周辺の森が伐採されて今はやや神々しさも薄れた感があるが、それでも苔むした拝殿前…
ラグビーのワールドカップが始まった。ポリネシア系の国々が強い。彼らは瞬発力を必要とする、あるいは体を酷使するスポーツで有能である。アメリカンフットボール、相撲においても同様である。圧倒的に強い。体重に対する筋肉と骨の比率が他の人種に比較し…
空軍力のない時代、戦争においては艦船の確保と運用は大いに物を言った。四囲を海に囲まれている日本の場合は特にそうである(世界で面積は61位、海岸線の長さは6位)。 「戊辰戦争(1868-1869)」では江戸開城後も「榎本武揚」は幕府艦船の多くを新政府に引…
宮崎県の「美々津」は紀元二千六百年記念事業の一環として「日本海軍発祥の地」となった(1940年)。「神武東征」の出港地としての伝承による。日本帝国によるお墨付きである。だから美々津は「御津(みつ)」に由来するとも言われる。因みに大友氏が島津氏…
「大神」は”おおみわ”と読む。「大三輪」とも書く。「豊後大神氏」とも無縁ではない。但し、この場合は”おおが”と読む。 豊後大神氏の源流を調べたいと思っていた。「大和大神氏」を辿ることになる。すると「大神(大三輪)神社」に行き当たる。そこは「記紀…
豊後佐伯氏は主家・大友氏の改易に伴い故地・佐伯での事実上四百年の幕を閉じた(1593年)。最後の当主「佐伯惟定」は佐伯を離れ浪々の身となる。随身を除けば家臣もそれぞれ自ら生きる道を探さざるを得ない。多くは帰農した。武家の宿命とはいえその落魄を…
「豊後土工」のふるさとは、ただただ息を飲むほどに美しい。豊後水道に面したリアス式海岸がそのふるさとである。 古来、この地は「海部郡」と呼ばれその祖先は「海人族」を源流とする。近世には「佐伯の殿様浦でもつ」と称えられた漁業の盛んな土地であった…
豊後・大友氏の家臣、「柴田紹安」は野津郷(現臼杵市)を領した「豊後国橘姓柴田氏」の棟梁で豊薩戦時(1586~1587年)には大友氏の出城である「宇目郷・朝日岳城」の城主を務めた。ここで島津に寝返ったことが結局は野津郷・柴田一族断絶の要因となった。大…
「青殺(さっせい)」、何とも非情な言葉である。茶の生葉がその酵素により発酵するのを熱処理して止める事をいう。「失活」ともいう。こちらの方が未だ茶に対して温情がある。 古来、茶は日本の生活文化の重要な位置を占めてきた。かつては生糸と並ぶ主要な…
母を病院に連れて行った。その目の前に五所明神がある。佐伯藩の一宮である。加茂、春日、住吉、梅ノ宮、稲荷の五所の明神を祭神とするのでそう呼ぶ。佐伯藩時代には旧切畑村の八坂神社から宮司を出してもらい名字も本家の橋迫から遠慮してか橋佐古に変えた…
全国には「和田」がつく地名が実に多い。概ねその多くはかつて海人族(あまぞく)が殖民した地である。海人族の祭る神(祖神)は「大綿津見神」であるが綿(ワタ)は海を意味する。和田はワタが転訛したもので、輪田、波多、畑、半田、八田なども同様である…
・1870年:平民苗字許可令 平民も自由に苗字を公称可能 ・1871年:戸籍法制定 ・1875年:平民苗字必称令 国民は全て苗字を公称義務 江戸時代においても庶民は苗字を持っていた事が証明されている。貴族や武士のように領地(「名字」の由来)は持っていなくと…
富士山の「富士(フジ)」の原義は「急に下がった状態」である。だからそういう状態にある植物の「藤(フジ)」も語源を同じにする。漢字表記は後付け、宛字である。今残る地名の殆どは漢字表記であるが、地名に限っては表意文字だからといって鵜呑みにして…
有島武郎に「或る女」という小説がある。独歩の妻だった佐々城信子がモデルである。今で言う飛んでる女である。”ある日、独歩が家に帰ってくると信子がいない”。信子に捨てられて「余は一種異様の感あり」。暫く未練を引きずっている。「源叔父」はそういう…
「忘れなそ、ふるさとの山河」という著書名(及びブログ名)は故郷を去った筆者に対する今は亡き父の言葉である。忘れるどころか望郷の念は哀しい程に深い。だから「小春」を読むと佐伯を想う独歩の心情が痛いほど分かる。 小春とは(辞書によれば)、初秋の…
「国木田独歩碑」は城山の本丸外曲輪の入口、冠木門の土台跡に立っている。城山に建てるなら場所はここではないような気がする。 「春の鳥」を読めば自ずと天守台のある本丸の内に建てるのが適っているような気がする。「白痴の少年、六蔵」の側に立っていて…
「歎かざるの記」は国木田独歩が大分県佐伯市に赴任する半年程前に起筆した日記である。よって佐伯地方の情景や独歩のそこでの思索状況も実に細やかに綴られている。小説の題材も多く散見される。 旧坂本邸(独歩の寄宿先) 当時の佐伯地方をこの日記やその…
「少年の頃、私は江戸時代に生まれなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生まれて一生を過ごした方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。」 昨年亡くなった、名著「逝きし世の面影」の著者渡辺京二の言葉で…
日豊(日向・豊後)の境界線にある陸地(かちじ)峠から望む可愛岳(えのはだけ:728m)の夕景である。その麓に官軍との最後の戦い、「和田越の決戦」に敗れた西郷隆盛が逃れ宿営した長井の地がある。ここで隆盛は全軍の解散布告を出す。豊後での西南戦争が…
もののけ(物の怪)とは未だその正体が分からない段階の霊魂のことを言うらしい。昔は病気の原因はすべてもののけが原因と信じられてきたことは周知の通りである。疫病だけは神による病でこれはお祓いや禊で退散してもらった。 人間は身体と霊魂で出来ていて…
佐伯地方は山が蝟集している。山は海に達しリアス式海岸を造形している。その地勢は耕作地に乏しい地であった事を示す。生きるにはとても厳しい。ただ海を介しての外部との交流だけは古くより活発であった。 一方、土地が限られているとは言え人々はこの海岸…
既成事実とか実効支配とかになってしまうとその原状回復は殆ど不可能に近い。 1600年、関ヶ原合戦の半年後に豊後にオランダ船リーフデ号が漂着した。乗船していたウィリアム・アダムズ(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(耶揚子)は徳川家康の外交顧問としてそ…
日本では、7世紀、律令時代に定められた60余国(令制国/旧国)が概ね現在も行政体として地理区分として継承されている。都道府県境が当時と変わっていない。つまり1,300年間、これの総体としての日本の国境も大きくは変わっていない事を意味する(例外的に周…
豊後佐伯地方(旧南海部郡)では山に登ればどの山からも豊後水道とその向こうの四国の見事な眺望が容易く手に入る。16世紀末の最後の国人領主佐伯惟定も、その後に入封して来た毛利高政も、それぞれの山城から同じ光景を眺めた。海に出よう、海で生きよう、…
いつの世も部下と上司の関係は面倒なものである。武家の世であってもそうは違いがないのではなかろうか。江戸期各藩の経営(責任者)は名目的には藩主という事になろうが実質的には家老が担って来た。それでも明治維新で幕藩体制が終了するまで270年間、今で…
「秋の半ば過ぎ、余は紅葉狩りせんとて城山の頂に登り、落葉蕭々の間、しばしば耳を澄まして風の行方を追ひ、我知らず古跡一種の寂寞に融け、行々楽しみたり。 三十年の昔は、ここに封建の古城立ちぬ。城市の民は月と日とを灘山の肩に迎へて、これを古城の背…
前回、”廃仏毀釈”により貴重な文化財が破壊されたことを書いた。今回は同じ明治政府による”城郭取壊令(廃城令)”を見る。 今やどの地域においても城の欠片でも残っていれば貴重な観光資源となり文化財となる。その建築遺構が現存でもしていればもう大変な騒…
中国の文化大革命(1966年から10年間続いた)は中国五千年の貴重な文化財を悉く破壊してしまった。革命とはかくも下劣な事をする。それだけならまだしも文革による犠牲者(死者)は40万人あるいは2千万人は下らないとまで言われる。毛沢東の政治的意図を盲信…
あの山の向こうが目指すべきサンクチュアリ、我が一族のアジールである。 この山を越えてこの川を遡り、 こここそがその地である。 サンクチュアリ、アジール、という概念は西欧由来だが、一般的に前者は”聖域”、後者は”避難所”と訳される。本来同じ意味合い…
豊後佐伯湾に浮かぶ大入島を訪問した時に初めてその歌を知った。お恥ずかしい限りである。その歌碑が島の北東海上の岩礁の上にある。ここに来て万葉の人々へ思いを馳せる人もいるのだろうか、いるとすれば、どういう人なのだろうと気になってくる。 万葉集の…