忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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続 古希の旅

 伊豆半島西側の付け根に位置する韮山は中々興味深い土地である。北条氏発祥の地であるが、1160年、ここに源頼朝が配流され歴史の表舞台に登場してくる。室町時代になると足利義教の四男政知が鎌倉公方として下向するが関東に入れずこの地に留まった(堀越公方と呼ばれる)。1493年、駿河に下向していた伊勢宗瑞(北条早雲)は二代堀越公方を攻め伊豆国支配下に置く。その前後より北条氏を名乗っている(後北条氏)。その勢いで関東を攻め小田原を奪取(1495年)、ここに拠点を移し戦国の大大名にのし上がった。

 早雲は伊豆半島南西部の松崎から上陸し婆沙羅峠を越え下田深根城に逃亡していた堀越公方を討ったとも伝わる。

 西伊豆は北条水軍の根拠地となり、土肥、田子、安良里などに拠点が築かれ今川や武田勢との海戦に威力を発揮したが、豊臣秀吉の小田原攻めにより、その大水軍に成す術も無く役割を終えた。

 江戸時代には伊豆は幕府直轄領となり韮山代官所が置かれ、代々江川家が世襲した。大砲製造のため反射炉を造った幕末の江川太郎左衛門が有名である。以上、西伊豆の歴史を一瞥した。

 さて今回も豊後佐伯地方と西伊豆を比較してみる。自らを客観視することは大切な事である。

 伊豆半島フィリピン海プレート上にあり火山噴火により誕生、地質は噴火物による堆積岩で成る。ほぼ山岳地帯でその海蝕海岸に平地は乏しい。特に西側には南北に高山が走っているため陸上交通には不便で近年まで船によった事は明らかである。陸上交通は峠越しかくなく、それもかなりの標高である。

 九十九浦と呼ばれる佐伯地方の海岸事情によく似ている。おそらく生活事情も同様であったのではなかろうか。人間の営みは地勢に負う。

 佐伯地方の地質は付加体と呼ばれる。プレートの沈み込み時にその表面が削ぎ取られて陸地化した土地を言う。南北に圧縮される事で東西に幾重に皺が出来たような平地に乏しい山岳地帯となった。残念ながらその地殻成立の相違により温泉県にあって温泉は皆無である。

 海進で豊後水道が出来た。太古の昔には瀬戸内海(当時は内陸)からここに日本最大の大河が流れていたのである。対岸の南予宇和海)地方とは地勢も地質も民俗も近似している(はずだ)。

大いなる海、大いなる精神 Y3-10 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 西伊豆を旅していて、その火山性の土地が海蝕されて造形された海岸景観には感銘を受けた。さりながら佐伯地方の海岸景観はこれに勝るとも劣らないとの確信を抱くに至った古希の旅でもあった。

 

以下、日豊海岸の景観を北から南に見て頂きたい。それぞれに海の歴史が横たわっている。