箱根(山)と西伊豆(海)へ往復400km余りを走った。二泊三日の古希記念の旅である。近場で温泉に浸かれて自然が素晴らしく歴史の豊かなところ、それが選択理由であるが何とも欲張りなことである。
この地が特別に人々を魅了するのは何故だろう。「全て富士山に帰する」としか言いようがない。箱根カルデラの外輪山の平均標高は1000m程度であろうか。最高峰は火口丘神山の1438mである。山岳としての魅力はそれほど格別なものではない。富士山が側に無ければ何と言うこともない山塊に過ぎない。惚れ惚れとする富士山の勇姿を拝むには立ち位置となるこの外輪山の高度が重要であり、富士山との標高差と距離が絶妙なのだ。”箱根八里”は外国人で溢れていた。
西伊豆も駿河湾を挟んで秀麗な富士山を遠望出来るからこそ人々を魅了する。その姿が見えなくなるまで行くと単に交通不便な僻遠の地に過ぎない。
いずれも温泉地であるが、それは二義的な要素に過ぎない。日本全国至る所温泉だらけで魅力的な温泉地は他にも数多い。ただ、東京からもっとも近場の温泉地という利点がある。これに富士山が加わるからこそ群を抜く観光地に躍り出るのである。
歴史好きにとってこの地の魅力は更に増す。古来、箱根カルデラの外輪山の南北の端に位置する足柄峠と箱根峠のいずれかを越さずには東西に行き来が困難であった。この地勢が故に数々の歴史も横たわっている。
足柄峠は今や殆ど人も通わなくなった侘しい峠であるが歴史には再三登場する。東海道は9世紀に箱根峠を使うようになるまでここを通っていた。
関東や坂東の呼び名はこの峠を発祥とする。日本の東部を東(あづま)というのは日本武尊が身代わりになって亡くなった妃をこの峠で「吾妻はや(我が妻よ)」と嘆き呼んだ故事に因む(伝承)。歴史書「吾妻鏡」などもこれに由来する。律令時代にはこの足柄坂より東にある地として”坂東”と呼ばれた。
峠には北条氏の支城「足柄城跡」が残る。本丸跡からは南に金時山、西に富士山の勇姿が迫ってくる。古くは大江山の酒呑童子を退治した伝承を持つ源頼光がこの峠で坂田金時を家来に加えた。新羅三郎義光は後三年の役で苦戦を強いられる兄八幡太郎義家を支援する為にここを越えた。戦死を覚悟の義光は笙の笛の名手でもあり、秘曲をこの峠で豊原時秋に伝授したとも伝わる。足利尊氏はこの峠を西に下って新田義貞軍との竹ノ下合戦に勝利した。
箱根カルデラの南側に箱根峠がある。そこから東海道沿いに西にやや下ったところに北条氏の支城山中城がある。石を使わずに築城された山城で”障子堀”で有名である。ここからの富士山も絶景である。関東に入る要衝にある足柄城も山中城も秀吉の小田原攻めで早々と落城し廃城となった。
二十万余の兵力を集めた秀吉は小田原城を見下ろす東海道脇の石垣山に一夜城を築城し小田原勢の戦意を奪って行ったのである。
さてこれらの地と豊後佐伯地方を比較してみる。人々を魅了する富士山のような存在も温泉も佐伯地方にはない。しかも超僻遠の地である。このままでは東京から古希記念の旅先に選ばれるはずがない。仮に九州最大の都市、福岡市に居住していたとしても中々選択肢には登らないだろう。
中九州には箱根カルデラを遥かに凌ぐ阿蘇カルデラがあるが佐伯地方とは流石に縁がない。箱根が日本の東西を二分する山塊とすれば、大分県を南北に二分する山塊が臼杵八代構造線を境に南側に造形されている。この壁を乗り越える事なく佐伯地方には入れない。
この壁に立つと箱根カルデラの外輪山からの富士山並みの程よい距離にくじう連山が見える。標高差が物足りないが絶景が手に入る。
あった。富士山並みとは言わないが圧倒的な存在が側にあった。「豊後水道」である。まさに”海の東海道”ではないか。日豊海岸は西伊豆に勝るとも劣らない景勝地でもある。対岸には南予の1000m級の山々が浮かび上がって見える。この一体的景観は一級品だ。
大いなる海、大いなる精神 Y3-10 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)
景行記に”白水郎の住む地”と記述されて以来、豊かな海の歴史も豊後水道に横たわっている。
世間に未知なるままに置かれて来たこの存在をクローズアップするしかない。この地を選ぶには覚悟がいる。それこそが最大の魅力なのだ。
古希旅行の結論である。
了