忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

2021-01-01から1年間の記事一覧

父との邂逅

二年振りに帰省中にある。予期せぬ神がかり的な邂逅が続いていて未だ興奮冷めやらない。 一つ目は羅漢寺(中津市)を後にして目指した恐るべき山あいにある龍岩寺(宇佐市、日本三大投入堂)でのことだ。 猪も驚いて転げるように逃げて行ったが、山賊が出て…

豊後探訪・国東と佐伯

「隣の芝生は青い。」、という言葉がある。 豊後最北の国東地方と最南の佐伯地方、佐伯の人間にとって国東は気になる存在である。古来、豊後の南北の地にあって相互に交流する機会はほぼ絶無である。まるで民族が違うようなものである。筆者には生まれてこの…

豊後探訪・国東編

もういいだろう。コロナ禍に帰省を阻まれて貴重な2年間を浪費してしまった。この間、豊後並びに海部郡の歴史文化・史跡の踏破を希求して止まぬ日々が無為に過ぎて行った。資料漁りばかりで頭でっかちになっている己を否定しようがないのである。決めた。車で…

僻地性と価値転換

筆者はこれまでの投稿記事の多くに我がふるさとの僻地性を強調し過ぎたのではないかと、少々後ろめたい気持ちがある。ただ、それ故に魅力ある人々を産む地でもあり誇りに思う点も念押ししたつもりではある。まずは東西南北からの佐伯地方の俯瞰である。確か…

国木田独歩とわがふるさとの峠道

“本匠路”はすべて山の中である。 峠道は車で通っては情感が湧いてこない。舗装されていては尚つまらない。峠道は人馬に踏み固められた細い土肌の道で、歩いて通ってこそ味わいが出てくる。峠道を越えていく。峠道から降りてくる。峠道で振り返る。峠道で立ち…

豊後と禅宗五山十刹 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(38)

禅宗、特に臨済宗においては五山十刹の制がある。権力者による禅宗寺院の寺格である。室町幕府が南宋の制度を導入し特に関係の深い寺院を選んで支援、保護した。天下五山、京都五山、鎌倉五山がある。十刹となると雨後の竹の子の如くである。日本では時代に…

ふるさとの人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(37)

番匠川は豊後海部郡・佐伯地方を東方の豊後水道に向かって流れ下っている。豊後では祖母傾山系を源流とし別府湾に向かって流れ下る大河大野川に次ぐ規模の川である。 その源流から主要な流域に亘って昭和初期まで因尾村と中野村があった。両村は合併され本匠…

佐伯国へ陸行水行すること遥かなり(文人墨客来たれ:続編) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(36)

中世あるいは江戸期における移動手段は、”陸行”であれば徒歩、”水行”であれば風待ちの帆船である。豊後は山の多い国であるが、特に佐伯地方は殆ど山岳地帯と言っていい。何処に行くにも幾つかの峠越えは避け難い。一方、古来、陸行より水行の方が便利この上…

文人墨客来たれ、されど佐伯は遠し 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(35)

豊後佐伯地方は人や物流の要路から遠く離れ、極めて僻地性の高い地である。すべて地勢の閉塞性による。ただ、海上だけは、唯一、外界への開放空間であった。この特異な地への歴史的著名人の往来の中に何か新たな発見でもないものか考えてみた。 まずは古代か…

歌合に見る中世の生業(なりわい) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(34)

中世は、都市が勃興し、銭が流通し、交通網が整備され、商品経済が発達し、庶民生活が活況を呈した時代でもあった。その諸相を庶民の生業(なりわい)から窺うことが出来る。これを対象にした貴族社会の歌人達による歌合が伝わっている。七十一番職人歌合(…

番匠川 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(33)

全国の一級水系(幹線流路)は109水系ある。一級河川数となると支川を含む為14千近い。例えば淀川は全国最大の965支川(河川)を持つ。それぞれの名前の由来も様々である。ただ職業名を幹線流路の名称にしているのは、唯一、全国でこの番匠川だけである。“番…

君の名は、綺羅星の如く 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(32)

世界最古の木造建築は法隆寺である(607年創建)。1,400年間、よくぞ残ったものである。これからも大切に保全し後世に残していくことに誰も反対はしないであろうし、古くなったので建て直そうと言う人もまずいないだろう。 その法隆寺以上に古いものがある。…

マックス・ウェバーも瞠目 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(31)

古来、豊後海部郡に棲んで来た人々は海や陸を自由に行き来した人々であったが、江戸期には厳然として領民である事を強いられ、ほぼ他所へ移動する事なくこの地で自らの手で暮らしを立てざるを得なくなった。在方(農村)、浦方(漁村)、城下(町人)、それ…

豊後佐伯藩領を覗き見する 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(30追補)

本稿は後進の将来の研究用の支援になれば幸いと考え掲載しておくものである。豊後佐伯藩の郷村と石高について絵図と共に示す。江戸幕府が国絵図とともに作成させた一国(旧国)単位の郷村高帳による。郷帳は慶長、正保、元禄、天保の四回作成されている。今…

恨めしや太閤秀吉、佐伯は負けぬ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(30)

豊後佐伯藩(2万石)の江戸上屋敷門が東京に残っている。愛宕下大名小路から移築したらしく、東京都の貴重な文化財とのことである。2万石にしては立派な上屋敷であったに相違ない。江戸駐在経費も結構なものであったろう。地元豊後佐伯市にも県の文化財とし…

恨めしや、太閤秀吉 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(29)

かつて豊後は西国一の国力豊かで先進文化が栄えた地であった(主として国東地方、豊後大野地方)。鎌倉から入国して来た守護大友氏もこれを基礎に一大覇権国家を営んだ。島津氏の薩摩を除けば概ね九州を制したのである。古くより開発された大野川流域一体の…

折れず、曲がらず、斬りやすい 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(28)

日本刀の事である。 大雑把に、西欧刀や中国刀が、直刀、両刃、片手握りで、“突き、叩き斬り“を専らにするのに対して、日本刀は、反り刀、片刃、両手握りで、”引き斬り“を専らとする。戦い方(騎馬、徒歩)や火器導入の早い遅い(刀の衰退)がその形状や開発…

ミトコンドリア・イブとシンデレラ譚 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(27)

ミトコンドリア・イブ(想像図)とその遺伝子の伝播ルート(時間軸) 日本の説話・昔話は、平安末期の「今昔物語」、鎌倉初期の「宇治拾遺物語」が双璧である。日本のみならず、インド、中国にも採話している。これらを含む説話集の多くは古くより日本全国に…

豊後磨崖仏新説 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(26)

日本の磨崖仏の約八割は豊後(大分県)にある。何故なのかは分かっていない。一般説では、古くから仏教文化が栄え、加工し易い凝灰岩が広く露出していたのが理由、としている。 岩山や断崖を穿ち彫る、という仏教遺跡としての石窟(寺院)と磨崖仏とでは歴史…

帰りたい夏、帰れない夏

八月は人々にとっては色々な意味でもっとも熱い月だが、反面、寂しい月でもある。ここは新暦の八月葉月の事である。盆には親類縁者が集いご先祖様も帰ってくる。だがこの時期を境に人々の心情は暑い気運から寂しい気運へと転じていく。人々やご先祖様が帰っ…

プレスター・ジョン(Prester John)と天徳寺 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(25)

12世紀、西欧では何度も十字軍を発出しているが聖地イスラエルの奪還が中々うまくいかない。それがあってか、東方にキリスト教国を建てた王がいてイスラム勢力を攻め立ててくれている、との噂が流布した。この王がプレスター・ジョンである(無論、伝説の類…

宗派の分布に見る仏教の実態(続編) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(24)

おおいた遺産・龍岩寺(岩窟に浮かぶ仏) 最近、仏教の事が頭を離れない。信仰についてではない、各宗派の分布の実態についてである。我が豊後海部郡・佐伯地方に臨済宗(禅宗)寺院の比率が豊後で最も高いのは何故なんだろうと疑問を持った事に端を発する。…

暦行事と季節感、混乱と鈍感

暑い夏、この季節になると暦行事でやや混乱することになる。旧暦(太陰太陽暦:月の運行と二十四節気)の思考が必要になるからである。それまでは概ね順調に新暦(太陽暦:太陽の運行)で過ごして来ていたのに、である。この時期に限ったことでは無いが、暦行…

暑い夏、熱い夏

“望郷”、歳を重ねる度に胸を締め付ける度合が増す言葉だ。”夏休み”、幾つになっても鮮やかな思い出を紡ぎ出す魔法の言葉だ。この暑い季節にこれ程似合う二つの言葉は他には無い気がするのだ。 “暑い夏”、母校の110周年記念の会員名簿が届いた。つい同窓の一…

禍福は糾える縄の如し 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(23)

歴史には運命の不思議がある。運命の皮肉もある。それぞれの運命の糸が紡がれていく。 豊後大友吉統、土佐長宗我部元親、薩摩島津義弘、伊予来島通総については後述するとして、まずは豊後佐伯地方を治めた佐伯氏とその後の毛利氏を見る。豊後大神姓佐伯氏の…

宗教勢力と世俗化と文化と 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(22)

律令体制下においては土地と人民は国家のものであった(=国領)。それぞれの国には朝廷から国司を派遣し支配した。土地からは年貢を取り、人には公事を課す。その国司の差配次第で搾取の動向も変わった。さて、やがて朝廷(国家)側に、税収拡大の為の新田開…

キリシタン大名はつらい 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(21)

戦国時代、日本にキリシタン大名が続出したのは何故なのだろう。諸説聞くが腑に落ちるものに出会えていない。1549年のイエズス会のザビエルの鹿児島上陸から1614年の家康の禁教令までの期間である。 キリシタン大名:高山右近 16世紀、欧州のキリスト教界に…

隠れキリシタン、隠しキリシタン、しかとキリシタン 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(20)

日本政府(明治政府)が法律上正式にキリスト教の活動を認めたのは1899年である(神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定)。 日本に初めてキリスト教がもたらされたのは、1549年のザビエルの鹿児島上陸からである。江戸幕府の1614年の禁教令までが最初の…

戦国合戦、そうは人を殺せない 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(19)

戦争における白兵戦において殺生(殺人)する事に関する興味深い考察がある。 その前に、戦国時代、それぞれの地域でよくもこれだけの合戦を数年おきに、ひどい時は毎年、やったものだと驚くばかりであるが、合戦におけるその兵員数や戦死者数に疑問を抱くこ…

島津、豊後蹂躙図とリーダーシップ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(18)

これほどまでに自国を他国に蹂躙された例を知らない。1586年の島津氏による豊後進攻である。 下図は島津の豊後進攻直前の豊後領国内の攻城戦に向けた主要な武将の配置図である。島津のその支配勢力地からの膨大な調達兵力(約40,000人)に比較し、大友には既…