忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

里の記憶、SOGs75

 産土神に帰省の挨拶でもしようかと長く傾斜のきつい石段の参道を登った。「白山神社」はいつ訪れても神々しい雰囲気を醸し出している。昔は鬱蒼とした森の中に佇んでいたが周辺の森が伐採されて今はやや神々しさも薄れた感があるが、それでも苔むした拝殿前の広場は相変わらず瑞々しくて美しい。

 参道を登りきると両脇に狛犬が睨みを利かし、拝殿前に出ると見事な石灯籠(1843年寄進、旧本匠村文化財)が両脇で空間を引き締めている。境内にはトガやイチイカシ(旧本匠村文化財)の巨木がまるでこちらを睥睨しているようだ。

 神殿には御神体の本尊の高さ40cmほどの十一面観世音、右側に阿弥陀、左側に薬師如来の三体、左側の箱には天神様の木像、立像と座像各一体、右側の箱には奇妙な形をした石灰石が三体(白山神社御神体)納められている(そうである)。

 神社の立つ小高い山の平尾根を散策していると石造の鳥居跡を見つけた。半倒壊した石柱には元文四年(1739年)と刻まれていた。ここには峠越えの山道が通っていたが峠付近で分岐した道はそのまま尾根(三股越)を通って「銚子八景」(佐伯市文化財)のある山向こうの集落(小川)まで続いていた。「国木田独歩」もこの尾根道を通って(筆者推測)銚子八景まで二度まで足を延ばした。この平尾根一帯の森は昔は村の子らのチャンバラやら木登りやらと日暮れ時まで最高の遊び場であったが、迂闊にも今の今まで全くこの鳥居の存在には気付かなかった。まてよ、暫く記憶を手繰っていると、そういえば半壊せずに完全な状態で深淵な森の中に立っていたような気もしてきた。

国木田独歩とわがふるさとの峠道 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 この神社は佐伯氏最期の当主、「佐伯惟定」(1569~1618)が建立した「佐伯12社」のひとつで近郷5ケ村の総鎮守神であった。天正7年(1579年)に惟定により勧請されたが、実はそれより遥か800年を遡る昔に由緒がある。

 大同年中(806~810年)、この地の「加賀の尾」というところに光り輝くものがあって地鳴りも起こり人々は眠ることが出来ない。近くに学問に優れた老人が住んでいてその夢枕に女神が現れ「我は加賀白山妙理権現なるぞ」とのお告げがあった。人々は光り鳴りは加賀白山妙理大神の飛来であると恐れかしこみ、五穀成就子孫繁昌の吉祥であるとして、「三股津留」の大きな森(場所不明)にお宮を立ててあがめ祀ったのがそもそもの始まりである。

加賀の尾(加賀の鼻)

 

 その後、長い時を置いて佐伯惟定公の立領に伴い、現在の地に宮地をあらため社を建立し鎮祭した。惟定は1578年の九州の関ケ原、「耳川の戦」で祖父惟教、父惟眞を失い幼くして当主を継いでいる。勇将に育った。後に「藤堂高虎」に仕え豊後大神系佐伯氏を今に繋いでいる。

三股津留

 

 さて鳴動である。今は誰も鳴動を聞くことがなくなったが、この国に住む人々は何かの前兆としてよく自然の鳴動を聞いた。山や地が鳴動する。「加賀の尾」の鳴動もその類であろう。この白山神社の山向こうの秀麗な石槌山(伊勢岳)の頂上に「石槌神」が祀られている。この山の頂上でも光輝き鳴動が起こった。こちらも瑞祥として四国石槌神社から勧請した。御神体が三体あり東九州でも特別の扱いを受けて石槌信仰の格式が高い。

 「三股津留」(集落名)の南端を安勢津(庵室、安説、あぜつ)と呼ぶ。ここに佐伯四国八十八ケ所中66番の「薬師庵(本尊薬師如来)」がある。光鳴動した場所はこの薬師庵の上のあたりで今でも「加賀の鼻」という。宮を立てた三股津留の大きな森は「森畑」というらしいが場所を特定出来ない。

 さて、佐伯氏が去り、その後を襲封した佐伯藩毛利氏の第六代藩主・毛利高慶公(1675~1743)の奥方は三年に亘り大病を患っていたが、この妙理権現に平癒祈願するとたちどころに快癒した。高慶公は奥方を伴い御参拝、領内の神職残らず参集させ大神楽を奏上、東西南北に湯釜を建て四釜にて「湯立神楽」を奉納した。

 その時、御宝刀(備前古刀二尺六寸)一振りと矢羽子(やはず)の毛利氏ご紋章入りの二重箱に金襴の袱紗に包み納めた御巻物を副え奉納された。巻物には、奥方「義眞姫」名など種々記載されていたらしいが巻物宝刀は庄屋柴田仙左衛門にて保管中、嘉永二年(1849年)の大火災にて消失してしまった。宝刀は刀身のみ焼け残ったので神殿の箱に納めて奉納したが、こちらも明治末年頃、盗難にあい行方知れずになってしまった。いずれも残っていれば貴重な文化財となっていたであろう。

 この宮の祭典は8月11日に取り行われ佐伯藩家中より上使が派遣せられていたほどの格式があった。少年時代には未だ神楽が奉納されていた記憶が鮮明であるが既にそれも途絶えて久しい。高慶公奥方の平癒記念の「樅の木」は社の左横に「御神木」として今も高く聳え立っている。この樅の木の苗木は堅田佐伯市)から取り寄せ高慶公代理の家老が手植えしたものである。

 これだけの由緒を誇り格式の高いこの神社が佐伯地方の人々に忘れられて久しい。地元においてさえ、その由緒を覚えている人は最早いないかもしれない。拝殿の天井の絵馬も吹き晒しのままで年々色褪せて見るに忍びない。

 この神社に限ったことではない。日本のあちらこちらで同様の末路を辿っている寺社や史跡が多いはずである。人々の生活様式が当時とはかけ離れてしまったこともあるが、これを尊崇する人々が高齢化と過疎化に伴い地元から消え行っている影響が極めて大きい。

 だからせめてこうしてふるさとのことどもを記録に留めておかねばと思う。

 出所:「白山神社妙理権現由来の記」(佐伯史談会、本匠三股・故高橋智氏)

<SOGs75>

佐伯(S)を想う(O)爺さん達(Gs)75歳までは頑張るぞ(75)