忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

賤ケ岳の戦い余聞 Y2-10

 佐伯地方は山が蝟集している。山は海に達しリアス式海岸を造形している。その地勢は耕作地に乏しい地であった事を示す。生きるにはとても厳しい。ただ海を介しての外部との交流だけは古くより活発であった。

 一方、土地が限られているとは言え人々はこの海岸沿いに点在する島には積極的に入植しようとは考えなかったようである。山や岬を切り開く方が未だましだと考えた(かどうかは定かではない)。

 佐伯地方には、海岸の北側からかつて佐伯藩に属した保戸島、佐伯湾に大入島、大島、南に下がって蒲江地区に屋形島、深島、の中小の島がある。これらの島に本格的に人が住むようになったのは江戸時代前後からではなかろうか。佐伯藩がこれらの島へ入植(移住)を奨励した事実が残っている。その前から人が住んでいたとすれば海の道を辿って外部からの落住者が密かに住み着いたとも想像される。このリアス式海岸一体には陸上交通が途絶した入江が多い。そこにも落住者の事実や伝承が多く残っている。

 落住者の発生は大概は合戦や御家の内紛の結果による。特に大きな合戦の続いた中世から江戸時代初期にこの地への落住者が多い。この事は佐伯地方のみならず全国的に見られる現象であろう。追手から逃れ身を隠すことが目的である。勝者側にとっても根絶やしにしないことには落ち落ち眠れない。落ちる側もしっかり隠れなければならない。海岸から距離を置いた中小の島や陸の孤島のような入江が相応しい。佐伯地方はまさに最適地であった。

 さて戦国後期から江戸初期までの佐伯地方のこれらの島への外部からの落住者について見る。我が柴田姓のルーツに繋がる話でもある。どうも織田信長の後継を巡っての柴田勝家羽柴秀吉との決戦、賤ヶ岳の合戦が端緒になっているようなのである。佐伯藩祖毛利高政もこの時は未だ秀吉の近習の一人としてこの合戦に参加している。

 合戦に負けた側に落住者が発生する。勝家陣営から出た。勝家の養嗣子、柴田勝豊である。その子供である三兄弟が豊後佐伯地方の大入島に落ちて来た(伝承に従う)。佐伯地方の柴田姓の由来の一つである。現在その14代目が大入島にお住まいと聞いている。

 あくまで伝承であり勝豊の末裔である証明となるものは残念ながら残っていない。以前、柴田三兄弟については「大入島物語」として書いた。ただ、勝豊がルーツであった事、何故、三兄弟が大入島に落住して来たかについては把握出来ていなかった。今回、勝豊の末裔説はその14代目の縁者から得た。大入島に落住して来た背景は勝豊であるなら多分そうではなかろうかと推察が可能となった。

 因みに佐伯地方の保戸島や大島の開発も賤ヶ岳合戦に関係する。賤ケ岳合戦で勝家側についた滝川一益の侍大将であった望月信房の子供達が拓いた。信房は豊後鶴崎半島の根っこにある神崎村に落住し以後は神崎姓を名乗る。何故、神崎村に落住したかは把握出来ていない。この時に京都の上賀茂神社を勧請して豊後に持ち込んでいる。その長男、二男が保戸島と大島を開拓し、両島には加茂神社が建立されている。よって保戸島と大島との繋がりは深い。高政が入封すると海岸地方に住む人々をこれらの島に移住せしめ神崎氏は大庄屋として藩政を支えた(佐伯史談会資料による)。

 歴史上の著名な人物の末裔譚は全国至る所にある。多くは伝承であり事実を証明出来るものは少ない。大入島の柴田勝家の末裔説もその範疇にある。だが柴田姓の三兄弟が落住して来た事は事実と考えられる。大入島の片神浦に五輪塔や遺物が残っている。佐伯地方に三兄弟が分住した先の柴田姓を拾ってみると下図の通りとなり、納得出来ない事ではない。

 さてこの佐伯地方の柴田姓と柴田勝家との繋がりを検証してみる。養嗣子になった勝豊と養父勝家の仲はあまり芳しいものではなかったようである。勝豊は病で臥せており賤ヶ岳の戦いには参加していない。ただ勝家が敗れると子息を密かに逃し(伝承に従う)その後間もなく病死している。大入島にあるその三兄弟のうちの一人の墓に没年が記されているが1688年没と勝豊の没年から百年経っており勝豊の子供とするには年齢的に厳しい。ただ、その孫の墓であれば整合性がつく。大入島来住の初代(勝豊の子)にとって大っぴらに五輪塔を建てるには未だ危険と考えた可能性はある。その子の代に至っては徳川の世である、最早、情勢として許容される時代になっていただろう。

 それでは何故、大入島に落住したか。勝豊の妻は稲葉貞通の娘である。三兄弟は貞通にとって外孫にあたる。貞通が兄弟を匿った事は想像に難くない。貞通は初代豊後臼杵藩主として1600年に入封している。三兄弟を伴った事は十分考えられる。佐伯地方は毛利高政が入封する直前でもあり貞通が領外ではあるが睨みの効く大入島に匿ったとすれば話は繋がるのである。以上を下表に整理した。

 更にこれを海の道から俯瞰してみると下図の通りとなる。

 人の移動は強制されるものであってはならない。だが戦乱はこれを容認しない。生き延びる為には今より安全ではあるが不便な地を選択せざるを得ない。昔は日本各地には未だ多くの未開拓地が残っていた点はそれでも幸いであった。今はそうはいかない。不満があろうと食えなくなろうと出ていくわけにはいかない。日本のどこにも新たに開拓出来る土地などない。だから多くの日本人は代わりに世界に移住していった(ハワイ、米国東海岸、南米等)。ただ、この点において満州では政治は過ちを犯した。

 さて、皮肉な事実がある。佐伯地方には人口減と高齢化により耕作放棄地が増えているのである。耕作地が労力無しに手に入るということである。古来、先祖達は限られた耕作地であったにも関わらず余すところなく開墾し我々の生きる道を確保してくれた。耕作放棄地の増加はその末裔達にとっての重い課題である。

 もはや日本では昔のように落住者は発生しない。それは悪いことではない。