忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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笑わない佐伯の歴史4、佐伯の名称の起源

1.古代佐伯氏の職掌

 「佐伯」の名前は545年に「佐伯連」として初出する(第三十代敏達天皇時代)。古代、佐伯氏は大伴氏に連なる朝廷に仕える軍事氏族であった。大伴家持の「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大王の辺にこそ死なめ」は大伴・佐伯両氏による天皇家への忠誠歌である。

 この佐伯氏は歴史上有名な事件にも登場する。蘇我馬子に命じられて皇位を狙う穴穂部皇子を誅殺(587年)した佐伯丹経手(にふて)、壬申の乱中大兄皇子に従い蘇我入鹿を殺害(645年)した佐伯子麻呂と、武力行使を担った。

 遡ること第十二代景行天皇の時に東国征伐による俘囚を西国(播磨、伊予、讃岐、阿波、安芸)に移住させたのが「佐伯部」の起こりである。この佐伯部が各地の佐伯氏発生や地名起源になっていった。中央の佐伯氏とは別系統である。

2.地名としての佐伯

 「和名類聚抄」(931~938年)に佐伯の地名(佐伯郡、佐伯郷)が載っているが、安芸国を除けば中央の職掌由来の佐伯氏が地方に進出し在地豪族化していった名残と推察する。安芸国だけは佐伯部が置かれたところで、厳島神社の社家でもある地名由来の在地豪族佐伯氏が勢力を張っていた。

 現在に残る佐伯の地名は下表の如く多くない。佐伯部に由来するのは広島県くらいのものでそれ以外は中央の佐伯氏が地元に土着した結果残った地名であろう。和名類聚抄に載る佐伯の地名や佐伯部のあった県からは佐伯の地名はすっかり消滅してしまった。唯一、大分県佐伯市だけに市名として残っている。伊予の佐伯部が熊襲対策の為に対岸の佐伯に分駐してきたことに由来するとも言われるが、今や地名としては希少性を有する。

3.佐伯姓分布

 現在における日本全国での佐伯姓の人数は約67千人で苗字順位は318位である(以下、「苗字由来net」による)。かつて佐伯部(5か国に設置)が置かれた現在の県でその分布を見ると概ね佐伯部に由来していると推察出来る。讃岐の佐伯氏は播磨(景行天皇の流れをくむ針間別佐伯直)から分かれたといわれ「空海」が出た。

 一方、佐伯部が設置された訳でもないのに富山県山口県に佐伯姓比率が高い。富山県では立山町に多い。佐伯氏が開拓した地と伝わり「立山開山」の祖でもある。山口県広島県の隣接地に佐伯姓が多い。安芸佐伯部の影響ではなかろうか。

4.豊後の佐伯氏

 767年に大伴氏に連なる朝廷武官、「佐伯宿祢久良麿」が豊後国司として着任している。5年間の任期を終えて民部少輔として帰朝、中々有能な人物であったようである。786年には従四位上、「左京太夫」まで昇進している。

 一方、在地豪族としては豊後の大族大神氏の流れをくむ佐伯地方に進出した地名由来の大神佐伯氏がある。戦国末まで約400年間、この地を支配した(1593年、主家大友氏改易に連座し去る)。

 この佐伯氏から分かれた佐伯氏は西日本に多い。中には緒方姓(豊後大神氏本家)に改姓した家もある。緒方洪庵は備中足守藩に仕えた佐伯氏(豊後大神佐伯氏の最後の当主佐伯惟定の弟が家祖)の末裔である。

 この地方の地名としては、天慶の乱(941年)時、藤原純友傘下の賊徒(桑原生行ら)が海部郡の「佐伯院」を襲うとある。また、弘安図田帳(1185年)に「佐伯荘」が初出している。

5.まとめ

 佐伯の名称は朝廷に仕える軍事に関わる中央氏族を起源とする。その氏族名は外敵の攻撃を「さえぎる」を語源とする。一般的に「サエキ」と発音するが、佐伯市では「サイキ」と発音する。明の胡宗憲の部下、地理学者鄭若曽による籌海図編(1561年)に豊後の要津として「撒一基」とあり、当時からサイキと発音されていたことが分かる。この地に「海部郡」の名称は消滅してしまったが、「佐伯」は同様に長い歴史を持つ希少な由緒ある地名である。愛しく大切に扱いたいものである。