忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

日豊(日向と豊後)ぶらりぶらり

 9月14日以来、およそ2カ月間、ブログを更新していない。故あって10月より故郷に帰省中である。そのついでに「地元の自然と歴史について再検証」をやっている事がその理由の一つである。これまでにブログにアップしたテーマの実地検分ということであるが、これがなかなかに奥深く筆を執る暇がない。加え、9月より仲間と地元の活性策について何か貢献出来ないかと身の程知らずの活動を始めたこともブログに手が回らない理由である。

  

 地元関係者との対話を通じて見えなかったものが見えてくることがある。地域活性と言えば、日本の地方のどこでもが否応なく取り組まざるを得ない喫緊の課題であるが、実際には国主導による地域創生策の地方による焼き直しであり、地方にはそれに同調することにより補助金が振舞われるという巧妙な関係で成り立っている。つまり日本全国同じ政策に沿って似たような地域活性策をやっている。差別化されていない同じ製品で過剰競争をやっているようなものである。補助金にも期限がある。その期限内にいわば起業して成功の道を見出さねばならない。民間でも新規製品開発や起業の成功率は極めて低い。地方行政がこれに勝る事業体とはとても思われない。

 よって地方行政当局がこれに安易に乗ってしまうのは危険である。そこに培ってきた「固有の歴史文化とその精神の喪失」にも繋がりかねない。究極、国の指示待ち体質から抜け出せなくなるリスクを抱え込むことになる。うまくいかなくても国との共同責任として曖昧にしてしまえるのである。裏を返せばこれに同調せず独自に知恵を出し活性策を打ち出している地方行政は生き残る確率が高くなる。つまり独自製品で差別化を目指しているからである。失敗してもこちらの方が再生力も強い。考える力がついているからである。

 実はこの国による政策下達と補助金配分の仕組みは国自体が地方と同じ道、つまり債務の際限のない増大という道を辿っているということでもある。地方はそのほとんどの財源を地方交付金に頼っているから如何なる政策が下達されても文句を言い辛い。省庁の顔を立て自らの存続を国に委ねてしまうことになる。一方、国は税金は自分のものだと思っているから増長が止まらない。

 政治が政策を決めると各省庁が一律同じ政策実行案を策定し予算の分配を求める。さして必要なくとも名目をつけて予算をつけてもらう。結果、各省庁から同じような政策と補助金が重複的に地方行政に降りてくる仕組みは相も変わらない。地方行政はこれを処理することに忙殺されている側面を否定しようがないだろう。本来の地元主義とは何かを見失う陥穽がここにある。税金を国の思うままにさせている国民の責任ということになるが、地元住民が地域行政に黙していることも同じ事である。地方にもプチ政府がはびこることになる。

 地元に継承されてきた「独自文化の喪失」は永遠に取り戻すことは出来ない。例えは悪いが絶滅危惧種のようなものである。やがて地上から消えてなくなる運命にある。 そういう危機感から勝手連としての活動を始めたという訳である。

 しばらくブログの更新は出来そうにないが勝手連(「南海部に天空路を拓く会」)のホームページ(www.minamiamabe.com)を作成し、こちらに地元に限定的な内容ではあるが「天空路ブログ(豊後のロレンス雑記帳)」として公開中にある。暫くはこちらが主体となりそうである。

(写真:北から南へと訪問した日豊の風景)