忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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豊後探訪・国東編

 もういいだろう。コロナ禍に帰省を阻まれて貴重な2年間を浪費してしまった。この間、豊後並びに海部郡の歴史文化・史跡の踏破を希求して止まぬ日々が無為に過ぎて行った。資料漁りばかりで頭でっかちになっている己を否定しようがないのである。決めた。車で帰省し長期踏査を実行することに決めた。

 まずは豊後八郡中速見郡国東郡から踏査する予定である。この地域は周防灘を隔てて対岸の大内氏、その後の毛利氏と豊後大友氏との鍔迫り合いの地であり常に紛争に見舞われてきた。地元豪族も両陣営からの引き抜き合戦に頭を悩ませてきた地でもある。

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 歴史的には宗教勢力の活動が先行する。宇佐神宮、六郷満山、八幡奈多宮が豊後の歴史を賑わせてきた。八幡奈多宮は宇佐神宮の分社である。この地方はかつては宇佐神宮の荘園に属した。豊後国図田帳(1285年)では両郡(国東、速見)で豊後八郡の田畑面積の44%を占めている。

 戦国期、田原氏、吉弘氏、という大友傘下でも有力な氏族がこの宗教勢力を抑え込みこの地を支配した。安岐郷の田原本家は歴史的に常に大友氏の対抗勢力となってきた。大友氏はその支族の武蔵郷田原氏を重用しこれを揺さぶった。これに八幡奈多宮・大宮司の奈多氏を使う。次男を武蔵田原氏に送りこみ、その妹を義鎮(宗麟)の妻とする。吉弘氏も田原氏から出ているが大友傘下では軍政面で抜群の貢献をした。筑後柳川藩の祖、立花宗茂もこの氏族の出身である。都甲氏の跡を継ぎ武蔵郷吉弘から都甲谷に根拠を移す。田原本家は海部郡の佐伯氏とも近い(縁戚、軍事同盟)。

 国東半島は魅力に溢れる地である。まず何より半島にしてはその形がいい。まん丸だ。両子山の噴火により出来た。火山性の地質が風雨に晒されて両子山を中心に海岸に向けて放射状に幾つもの長い谷を形成する。岩峰は耶馬(天念寺耶馬、無明寺耶馬)と呼ばれる奇岩で出来ていて景観も申し分無い(はずである)。

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 そこに、後世、六郷と呼ばれる六つの郷村が成立する。一帯では宇佐神宮と国東半島の山岳信仰が融合し多くの仏教寺院が創建され独特の仏教文化が花開いた。それ故、総称してこれを六郷満山と呼ぶ。また、豊後には磨崖仏が多い。その多くはこの地方に集中する。火山性の凝灰岩は磨崖仏を彫るには最適である。

 さて、その半島の首根っこにも同じ火成岩による山岳地帯が続く。豊後と西北の豊前とを分かつ。長らく豊後大友氏にとっての北の防衛線となってきた。周防の大内氏、その後の毛利氏とはここを前線に領土戦争を繰り広げた。

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 一帯に山城が築かれ信頼のおける家臣が配置された。最大の勢力が都甲谷を支配した吉弘氏である。半島の首根っこに豊後に入る為の要路が通じる。豊前街道である。立石峠を越えて入る。因みにこの地域を断面図でみると以下の通りとなる。

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 一方、半島北側の海岸線はリアス式海岸を形成する。浦部衆とよばれる国東水軍の拠点になった。海部郡と同様に海人族の末裔である。

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 別府湾を挟んで対岸の鶴崎半島(佐賀関)は若林水軍の拠点である。よってこの湾の奥にある大友氏の拠点、府内を海から攻めるのは難しい。その意味では半島の首根っこは攻める側にも守る側にも戦略的に最重要な地域といえる。

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 大内、大友の最大の合戦場となった勢場ケ原はこの根っこの立石峠の豊後側にある。吉弘氏の若き当主氏直を大将として白兵戦を挑むが氏直は討たれた。結果は痛み分けで両者の領土の境界線は後の宗麟の時代までここに定まる。

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 宗麟の時代にはこの防衛線を超えて北九州まで大友氏の版図は広がる。一方、皮肉にもこの地は大友氏の内戦でも戦場になる。大友傘下の最大勢力の安岐郷の田原親貫が宗麟に叛旗を翻す。親貫は援軍を豊前に頼り都甲谷の南方、鞍懸城まで退避して来る。高田城にあった柴田礼能と尾山城の吉弘統幸がこれを討ち田原氏はここに滅亡する。両者の激戦はこの地に矢原の名を残している。

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 宗麟の嫡男吉統の代には島津勢が阿蘇口、日向口より豊後に侵攻、全土を蹂躙し府内は焦土と化す。吉統は高崎山城、竜王城と北に向かって逃げ落ちる。その竜王城は勢場ケ原の西方の豊前内にある。吉統は豊後からほぼ追い出された訳である。

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 幸いにも島津は杵築城まで攻めたが落とせず、秀吉軍が宇佐に上陸の報に接し豊後を撤退して行った。上陸した豊臣秀長軍はこの立石峠を通って豊後入りする(秀長は佐伯惟定の栂牟礼城にも宿泊したと伝わっている)。

 国東の海岸地方はかつて人々がキリシタンに改宗した地でもある。岐部氏にはペトロ岐部が出ている。その端緒を作ったザビエルは周防山口から宇佐に上陸し立石峠を超えて日出を見下ろす鹿鳴越を通り日出から船で府内まで来た。現在、日出では鹿鳴越から降ってくる道をザビエル街道と呼び観光資源にしている。

 八幡奈多宮・奈多氏の次男は田原分家を継ぎ子女は宗麟の妻となったが、皮肉にも宗麟はキリシタン洗礼後、悪魔の施設として豊後の神社仏閣を破却させる。国東地方の多くの寺院もこの時に破壊された。

 さて、嫡男吉統は文禄の役の不首尾で豊後を改易されたが、関ヶ原合戦時に西軍方につき豊後で再起すべく別府に上陸して来る。既に細川氏の支配となっていた杵築まで攻めてはいくが、豊前中津を拠点としていた東軍の黒田孝高の進軍に別府の石垣原まで撤退、黒田孝高にここでの一戦で再起の夢を砕かれる。吉弘統幸を筆頭にかつての有力氏族もここに共に滅ぶ。因みに黒田孝高は立石峠ではなく、国東半島のど真ん中にある赤根峠を越えて進軍して来た。

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 豊後の北と南の端にある国東地方と佐伯地方とは地質、地勢、歴史文化においてその成り立ちを大いに異にする。ただ、絶えず外部勢力の食指が伸びてきた点で歴史に登場する機会は国東地方が遥かに多く佐伯地方の比ではない。両郡(国東、速見)は豊後の北の防衛線となったが、佐伯地方は自らの防衛線を豊後側に向けていたという大きな相違点もある。

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 今回、それを実地踏査できる事は幸いである。何よりそういう歴史背景を持つ国東地方の人々への関心が強い。

 

了